一日一善~開墾と播種~

人は誰しも人生の中で自分との仕合を続けていくものです。

それは単なる競争の勝ち負けではなく、自分自身に克つかどうかを行っているものです。自分の克った結果として事物は顕正してきますから常に真実は自分に正直であったということです。

では具体的に己に克つとはどういうことをいうのか、そして礼に復えるというどういうことか、それを二宮尊徳が分かりやすい例えで自らの実践を説いている文章があります。

「孔子曰く。己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰すと。私欲身より生ずる。之を己という。猶ほ蔓草田畝に生ずるごとく也。力を極め私欲を圧倒す。之を克と謂う。猶ほ角力勝を制するごとく也。之を開墾に譬う。己に克つは、闢荒也。礼に復るは、播種也。天下は広く之を言ふのみ。猶ほ闔荒と言うごとく也。仁に帰すとは、闔郊皆秀実穀粟と為るを言ふ也。」

(意訳ですが、孔子は言っている、「己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す」と。常に私欲は自分自身から生ずるもの。これを「己」という。たとえばつる草が田んぼに生じ覆いかぶさるようなものだ。それを自らの力を極めてその力をもって私欲を圧倒する。これを「克つ」という。たとえば相撲のように自らを自分自身で心身一如に修めることで制し「克つ」というのと同じようなものだ。これを私なりに農の開墾に例えてみよう。つまり「己に克つ」とは、ひどい荒地を必死に開くことだ。「礼に復る」というのは、そこに根気強く丹誠を籠めて種をまくことだ。「天下」は広い世の中に対してということを言っているだけである。それはありとあらゆる荒地に対してと言うようなものだ。「仁に帰す」とは、まるであたり一面に豊穣の穀物が皆よく実っているということを言うのだ。)

自分から常に道を切り開きそして幸せの種を蒔く。これは私の仕事でいえば、自分から進んで社會のために荒れた人々の心の救済や、子どもたちのためにと人々の力になり、そして自分の信じている世界や信じた理念の種(商品等)を一粒一粒丹誠を籠めつつ拡げていくということに他なりません。

自ら開墾もせず種も蒔かなかったらそれは己に負けて礼を失したということになるのでしょう。常に思いやりを優先する実践とは、「開墾と播種」ということに他なりません。世の中に対して自らが行動してこそはじめて思いやりに満ちた世の中にしていくことができるのでしょう。

世の中が荒れているからと荒れたせいにし自分は何も動こうとはせずに言い訳ばかりをし、種も蒔こうとはせずに家の中に置きっぱなしにしていたら目の前の荒れ地はもっと荒れ果てていくだけでしょう。人道というものは、自らがせっせと草取りや草刈りをし、自分の中に生え続ける私欲を同じように取り除き続けて、常に刻苦勉励、人々のために労苦を惜しまずに頼られ力になっていくことを言うのでしょう。

人生は、常に自分の仕合をしたかどうか、自分の仕合ができたかどうかが勝敗を決めます。自分の仕合とは生き方のことですから、今日一日、どんな生き方であったかを振り返ることしかできません。

自己管理というものの本質は、己を出し惜しみなく出し切っているか、そして真心を籠めて誠実に遣り切っているか、自分の志に恥じないような人生であるかと自問自答の対話を続けていくということなのかもしれません。

一流というのは条件に左右されずに、常に一に止まることができます。一流の仕事とは何か、それは常に自ら切り開き自ら種を蒔き続けている人物の仕業ということなのでしょう。

常に「開墾と播種」、つまりは業を営む実践を行うことが克己復礼なのだということを忘れずに一日一善につとめていきたいと思います。