人は対話を言語によって行う生き物です。自分とのかかわりやつながりができてくることで人は人と仲良くなります。仲良くなるというのは、お互いに関係しあっていくということです。
その関係の中で使われる言語について少し深めてみます。
そもそも私たちの意識というものは、関係性によってつながり合います。自分が何に関心を持つか、関心を持とうとするかで人間関係をはじめそれ以外との関係もまたできてきます。自分が何に関心を持っているかというのは、具体的には何とつながっているかということです。
それが家族であったり、友人であったり、お客様であったり、つながりはお互いの仲の間に存在します。これは私は人間だけに限らず、動物や植物、その他のすべてにおいてその人が仲善くしたいと思っているものとの関係性が対話となっていくのです。
関心というものも同じく、自分の心が関わり合っていくことでそのものとの良好な関係を築いていくことができます。相手がいるから私がいて、私がいるのは相手の御蔭様と、お互いに必要としあい思いやることでつながりが結ばれより絆が強くなっていくのです。
日本書紀にはこういう言葉が遺っています。
「草木咸能言語」(そうもくみなよくものをいう)
これは、草木には精霊が宿り、その精霊は言葉をよく喋るという意味です。そしてこれは草木だけに限らず、音を出す動物たちやあの昆虫や石や大地にいたるまでありとあらゆるものは言霊を発しているという意味でしょう。
これは関わり方によって異なっているのです。たとえそのものに目や耳や口がついていなくてもいいのです。また人間は目に見えないものを観ようとすれば観えるものですし、耳に聞こえないものも聴こうとすれば聴こえます。これはすべて心を用いて行うものですが、関心というものはその心の関わりによっていくらでも観えて聴こえることができるのです。
それは距離を超え、空間を超え、あらゆる垣根を超えて「言語(ものをいう)」によって語り合います。
心は無限、心は宇宙と同じように強い結びつきによってお互いを活かしあっていくのです。だからこそ自分からつながっていきたい、自分からかかわっていきたい、自分から好きになりたい、自分から大事にしていきたいと、自分から仲間づくりをしていくことで心もまた生長していきます。
相手に求めても相手は自分に語り掛けてはくれません。自分から相手とつながりたい、仲間になりたい、近づきたいと心を寄せてはじめて関係は強く結ばれお互いに善く「ものをいう」ことができるようになるのです。
つまり言語の本質とは、言葉の違いではなく、お互いの心の共鳴なのです。心が共鳴し合うからこそはじめて言語を語ります。言語とは自分の心を相手に寄せて相手の心を自分が感応することで共鳴しあう言霊ということです。
そしてそれはお互いが精霊であるということを証明しているのですから、大前提として対話とは心から言葉を用いて行うものであることを忘れないことです。
言葉が単なる道具やものになってしまえば、つながりも絆も遮断されてしまうかもしれません。言葉は何のためにあるのかもう一度善く考え直していきたいと思います。
心を傾けるというのは、自分の心が何を伝えるのか、そして相手の心から何を感じる取るのか、それは「思いやり」の心を通じ合わせていくということです。
必ずつながりは鏡のようにお互いを映し出すものです。そしてそれがご縁というものです。ご縁があるのは精霊が引き合うからかもしれません。祖神たちのように、あらゆる精霊と語り合っていた真心を、無垢で無邪気に言語を発していた好奇心を、大切に守り育てていきたいと思います。