先日、ドイツと日本の比較の中で空調についてのことがテレビで放映されていました。日本ではほとんどが空調をつけて夏を対応しているのに対し、ドイツでは窓の内外のブラインドを効果的に使うのでほとんどの家屋で空調すら設置されておらず暑さをうまくしのいでいるという話でした。
そしてどちらが環境に優しいかということで比較されていて、日本の家屋はそういう意味でドイツには劣るというようなことを伝えていました。
そもそも不思議に思うのが、日本の家屋といっても今の日本の家屋は欧米から輸入されてきたものです。今はほとんどの住宅がアメリカ式に改造され、部屋のつくりも建て方も、そして内装や家具までほぼ欧米そのものです。
私たちは明治時代から、欧米の文化を取り入れかつての自分たちの文化を否定して近代化といった短期的パワフルで利便性の高いものを取り入れてきました。自然を相手に悠久を生きた時代とは異なり、植民地的に支配する人間を相手に自分たちを守るためにと戦ってきました。
しかし戦後に、戦争に負けてしまいほとんどがアメリカ文化によって日本の文化を改造され今では何がもともとの文化だったのかが分からないほどになってきています。それは食文化しかり、農文化しかり、生活文化しかり、働き方から生き方にいたるまで、欧米のものにとってかわられました。
先述したドイツと日本の家屋の違いについては、本来の日本家屋は和式であり、よく地下から地上へと自然の風が抜けるように建てられていました。そして夏は涼しく冬は暖かく自然物をうまく活用し、夏に至っては風鈴や打ち水、スイカなどあらゆる工夫で涼しくしていたのは私たちも同じです。
それを今では欧米と比較され、欧米の方が環境先進国だと謳われ、それを真似をするというのはどうしたものかと不思議に思います。以前、訪問したドイツやオランダは日本の文化を研究し上手に自国の文化に取り入れていました。
しかし私たちの方は、自国の文化が消失していますから取り入れることができず単なる真似だけになってしまうのです。これでは何が何だかも分からない人たちになるのだから単なる真似しかできないのです。
取り入れることができるというのは、自分があるということです。文化を吸収することができるというのは、自分の文化をちゃんと自覚習得できているということです。畢竟、多様性というものは代々受け継がれ継承してきたものの上に積み重ねて改新していくということなのでしょう。
だからこそその土地、その場所、その人にその文化があり世界がどのような気候変動や変化があっても智慧を重ね合わせて生き残ることができたのがいのちの理なのです。
人が自信を失う理由は、自分がないからです。自分があるというのは、本来の自分が何でできているか、本当の自分がどういう暮らしをしてきたか、歴史というよりも文化そのものである自分に誇りを持つことが風土を生き抜いてきたという自信になるのでしょう。
祖神たちの願いに思いを寄せれば、今の自分たちが何を残し何を譲らなければならないのかを自覚してきます。世界観というのは、すべて今を生きる私たちが担うものです。時代は急速に世界の距離を近づけているからこそ、もう一度日本とは何か、自然とは何か、自分とは何かを大事に学び直しを続けていきたいと思います。