相互扶助の精神

昔のことを調べていると、如何に昔は皆が一緒になって協力していたかが分かります。

稲作もそうですが一人だけでお米を育てていたわけではありません。多くの人達と協力しては手伝いをしながら収穫をしお祭りをし人手を合わせて助けあってきました。他にも一人だけで責任を持つような仕事の仕方はしておらず、皆で力を結び合わせて協力していくことで生き残ってきているともいえます。

そもそも人類が生き残ってきた智慧の一つが、相互扶助という仕組みです。

御互いが大変な時に御互いに助け合い、御互いが物々交換をし、御互いを大事につながってきたことで御互い様の御蔭様で生き延びてきたのです。飢饉や飢餓のときも、自分の食べ物を相手に譲り、また逆の立場になったときは食べ物を分けてもらい、御互いに支え合って生き延びきてきました。

何時そんなときが来るかもしれないからと、常日頃からみんなの力になっておこう、徳を積み重ねていこうと精進してきたように思うのです。それが明治以降くらいから西洋の考え方が入ってきては間違った個人主義が蔓延し、今のような働き方も今のようなお金を頼るような生活スタイルも今までの自分たちがやってきたことと異なる方へと傾いてきたように思います。

もしも飢饉がきたらどうするかということなど平和な時代は考えなくなっていくのかもしれません。本来、私たちは一人でできる仕事などありません。相手があってできることですし、社會があって成り立つものです。それを私物化して自分のものにしようとしても、それはできるはずがないのです。

だからこそ相手と社會と一緒に取り組んでいこう、敢えてみんなと一緒に取り組んでいこうとするのが人間の智慧であり、また誰かのために生きられるという幸せと歓び、そして共に困難を乗り越えていこうとする励ましと勇気になるように思います。

皆様の御蔭でここまで来れましたや、皆様の御蔭でこんなことができましたというのは、いつも一緒に働いてくれていたと自分自身が実感するような意識があるということなのでしょう。まるで機械の歯車のように部品としてその責任だけを果たし、その部品が壊れれば交換されるというようでは安心して一生懸けて取り組んでいくことはできません。

どんなことでも協力し合えば、徳性に合わせてその時々で御役に立てることがあると信じているのが仲間であり組織であると思います。組織を創る一員か、組織を壊す一員かはその人の意識にあるように思います。

常に一員意識をもって私物化を戒め、一員意識で相互扶助の精神を大切にしていきたいと思います。

日々に蒔く種

人は毎日一生を送っているとも言えるように思います。朝になり昼になり夜が来る、これはどれも人間によって振り分けたものですが日が昇り日が沈むことで地球も一回転し、自分たちの一生も一回転してまたゼロからはじまります。

人間は朝起きて一生がはじまり、夜就寝して一生が終わります。つまり一生とは、生きていること一に止まるということです。

その人がどういう毎日を過ごしたかが、その人がどういう人生を過ごしたかということでもあります。自分がどんな人生なんだろうと思いを寄せてみれば、どんな一日を過ごしているのだろうと省みれば自分の人生を俯瞰することができるのです。

日々は毎日変化して已みません、同じように繰り返しているようでも同じ日々は一度としてありません。その中で自分の人生を歩んでいる実感は、何のために自分が生きるのかを忘れないことのように思います。それを忘れてしまっていては日々は消化試合のように過ぎ去ってしまうからです。どんなに忙しい時でも、どんなに暇な時でも、何のためにを忘れていない人は必ず其処に意味を観出し実践につなげていきます。

これは言い換えれば、朝起きて何のために生きるのか初心を思い返し、そして就寝する前にどういう初心で一日を過ごしたか、そしてどのように初心を顧みて眠るかということでもあります。

人間は寝ると忘れるのは、死ぬと忘れるということに似ています。身体の細胞も代謝して生まれ変わり、意識もまた生まれ変わりますから、日々は毎日忘れたところからはじまっているとも言えるのです。

だからこそ日々に積み上げていく大切さ、魂を研鑽して高めていく重要さに気づけるものです。日々怠らないということは、初心を忘れないということです。初心をどれだけ心奥深くに鎮め、日々の行動を慎むか、自分自身の人生を周囲の喧騒に流されず本物にしていくには初心を研鑽していくための人生道場であるという心がけが必用なのかもしれません。

何のためにを何度も思い出せることが初心を忘れないことの実践です。忘れていないと思うのではなく、忘れるのだから忘れないでいようと心に刻んでいくことが揺らがないということなのでしょう。それは習慣という天性の御力をお借りして、実践をしている最中に初心に触れ続けて初心を大切に自分から守り通していこうという真心の発露でもあります。

日々の心掛けが積み重なって将来の成果ですから、正直に蒔いた種が育つように、どのような初心で種を日々に蒔いていくのかを忘れないで周りの勇気や元気になるような日々の実践を丁寧に進めていきたいと思います。

日記伝~真心の伝承~

二宮金次郎正伝(モラロジー研究所)という著書がある。これは二宮尊徳の子孫で総本家の現当主が金次郎の人生の軌跡を再現したものです。

もともと二宮尊徳は死期に及んで「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と日記に書き記しています。

実際の人生は、周りが解説したり政府が勝手に解釈したものを編纂したりしたもので理解できるものではなく、金次郎の日記にこそ真実が書かれているということでしょう。同じことを論語、大学を記した曽子が臨終の際に弟子に語ったのがこの「予が足を啓(ひら)け、予が手(て)を啓け。詩に云う、戦々兢々として深淵に臨 むが如く、薄氷を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後、吾免(まぬか)るるかな、小子(しょうし)。」があります。

どれだけ必死に道を守り通してきたか、どれだけ真摯に信念を握り続けてきたか、その軌跡に実感するのです。どの時代であっても、理想の政治が誰にしろ受け容れられるわけではなくギリギリの状態で取り組んできたのがわかります。

君子もとより窮すと論語にもありますが、そもそも苦しい状況の中を歩んできたのです、死してのち已むという心境はようやくここまでで尽きるといった道の厳しさを説いているようです。歩んできた人にしか分からない境地がそこにはありますし、それは道を歩み切った方々が臨終が近づくについて実感できる境地なのかもしれません。

人は必ず死を迎える日が来ますから、それまでどのように生きたかというのは死に顕われるものなのでしょう。後世の人が改ざんしていいところ取りをしていきますが、本来、手に取るべきものはその人の日記にこそあるのかもしれません。

以前、慈覚大師円仁の日記を拝読し感銘を受けた時も同じ感覚でしたし、高杉晋作の日記の時も同じでした。実際に周りが評価している人物像とはかけ離れたものがその日記にはあり、道を歩んだ人の心に近づくには日記を読み解くことが大事なのでしょう。

その二宮金次郎正伝の中に素晴らしい言葉と出会いました。

「本来君ありてのちに民あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのちに沼あるにあらず、沼ありてのちに始めて蓮生じるものなり。」

意訳ですが(本来は君主があってから民衆があるのではない、民衆があってのちに君主がおこってくる。蓮があってから沼があるのではなく、沼があるからこそはじめて蓮が生まれてくるのだ。)という意味です。

本来は組織も同じく、スタッフの方々があってこそリーダーはおきます。リーダーさえいえばスタッフがあるわけではありません。同じく民衆があってこそ政治があり、政治があるのは民衆の安寧が先だということです。

あの藩政を優先して一部の方々が利益を独占していく時代に、孔子と同じく理想の政治を説き、そし具体的に荒廃を癒し復興改革する心田開発の技術を持ち、私達に一円融合する生き方を示してくれた聖人、それが二宮尊徳です。

私たちは今、世界を含めて大変危険な状況に陥っています。世界人口増加、貧富の差の拡大、消費が生産を上まわり、生きものたちの絶滅速度は急激に広がっています。このままでは、欲があらゆるものを呑み込み止められなくなってしまうかもしれません。文明が崩壊していくとき、いつも同じことで乗り越えられずまた同じことを繰り返してしまいます。

同じことが起きるのは今度こそはという人類の文明実験であるのは論より証拠です。その今度こそに二宮尊徳の思想と技術は私たちが子孫繁栄するための要になると私は信じています。

最後に尊徳の言葉で締めくくります。

「天つ日の 恵み積み置く 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」

天地自然の恵みは無尽蔵なのだからそれを掘り出すのも刈り取るのも自分次第なのでしょう。日記が続いていることを忘れずに、心の希望を勇気に換えて、その徳の無尽蔵を自らが掘り起こし、取り出して子どもたちや多くの方々にその真心を伝承していきたいと思います。

自然の視野

視野の広さというものがあります。

視野が広い人は全体や丸ごとで物事を観察することができますが、視野が狭いと自分の価値観によってしか物事を観察することができなくなります。視野にはその人の観念がありますから、その差がその人の生き方ともいえます。

先日、ある動物が絶滅するからと別の島に運びそこで種を増やすということが報道で流れていました。また植物の種が絶滅するからと氷の下で保存しているという話もあります。それが良いとか悪いとかではなく、どの視野でそれを考えて行っているかに視野の差を実感するのです。

生きものが絶滅するにも理由がありますし、生き物たちが増えすぎるのも理由があるものです。時代や自然の流れにしたがい、あるものは減りあるものは増えるのです。それを人間がどうしようかといっても、それも自然の流れでもあります。

自然の流れに逆らわないという言葉もありますが、正確には自然の流れには逆らえないという方が本質なのでしょう。人間は自然に逆らうことができるという視野と、自然に逆らうことができないという視野があるのです。

前者は西洋文明が発展してきた理由であり、後者は東洋文明が長く存続してきた理由でもあります。

自然に逆らえば、人間の知恵が自然を凌駕すると勘違いします。実際は植物がなければ空気すらなくなりますし、菌類がいなければ何も栄養が吸収できないほどですから凌駕できるはずはありません。

自然に逆らわなければ、受け入れることをはじめどこまでが許されるのかを自覚することができるように思います。それは自分たちが許される分限分度を理解するということです。

視野というのは、その人の内面が顕れるものです。どこまで遠くを観ているか、どこまで丸ごと観ているか、どこまで広く観ているか、どこまでつなげて観ているか、どこまで深く観ているか、どこまで時空を超えて観ているか、そういう視点がその人の心胆力とも言えるのでしょう。

物事を深めている人たちの視野はみんな同じような視野の広さで測るモノサシを持っています。これからどう生きるのか、これからどう歩めばいいか、未来を譲るためにどうあるべきかを見通します。

視野に限界はありませんから常に自然の視野に広げていきたいと思います。

己に克つ~思いやりに生きる~

人が素直になるというのは、自分の間違いに気づき変化するということでもあります。

自分が間違っていない、自分が正しいと思い込んでいると人は素直にはなれません。他人の話に耳をよく傾け、または自分の心で反省ができなれば己の正しいという思い込みに負けてしまうからです。

相手が自分の思い通りになっていないときや、自分が思っている理想とのギャップがあったというのは、自分がそうあってほしいと思い込んでいるものです。きっと相手は自分にこういう対応をするはずだと信じたり、きっと相手はこう思っているはずだと自分の先入観に照らしてその物事を判断しようとするからです。

自分の妄想ともいえる自分の迷妄想をいくら照会したとしても、相手は自分ではないのだから思っているような反応とは限りません。相手を思いやることをせずに、相手の反応を見てはどのような評価をされるのだろうと気にしてばかりいたら萎縮してしまって本音を出せなくなるものです。

人は相手のことをきっとこう思っているだろうと思い込んでしまうと、それを気にして対話が正しくできなくなるものです。これは自分自身との対話でも同じことを言えるように思います。

自分の持つ先入観、言い換えればセルフイメージが先行し、「自分はこう思われているから、自分には向いていないからとか、カラーではないとか」等々、自分の今まで生きてきた思い込みの価値観でしか物事が見れなくなると誰とも本心や本音での対話ができなくなるのです。

本来は他人との対話でも同じですが、先入観を持たずに素直に聴いて謙虚に学び修正していけばいいことですが自分の先入観や価値観のメガネを外せなければ出会って出会わず、気づいて気づかずということを永遠に繰り返してしまうものです。

先入観を取り払うほどの体験ができたり、先入観は間違いだったと信じられるような経験が得られるとそこも変化しますが普段は言い訳をしたり避けたり逃げたりしながら停滞を続けてしまうものです。

私は停滞を抜ける方法は「思いやり」ではないかと感じています。自分のことを気にしなくなるほどに相手のことを大事に思いやったり、自分がどう思われていようが構わずに相手を大切にできる方に勇気をもって行動し実践するとき自分自身のとらわれがなくなっていくからです。

相手を思いやっていると自分の苦労が気にならなくなります。具体的に思いやりを一つ一つ形にしていたら自分の先入観が間違っていたことに次第に気づきメガネが外れていきます。実際に私が仕事で行う人事問題の解決も思いやりをもって誤解を溶かしているだけだからです。

己に克つというのは、思いやりに生きるという意味と同じ定義なのでしょう。

相手が変わってほしいときや周囲に不平不満が出ているときは、自分を変えるチャンスということです。そういうときこそ、素直になることですが素直も分からないくらいモヤモヤするのなら相手を思いやり、自分を忘れるほどに自分を使い切っていくことがいいのかもしれません。頭で迷妄想をする暇を与えず、頭でっかちに素直とか思いやりとかを考える余裕すらも与えないほどに思いやりに生きるといいのでしょう。

変わる前は苦しいものですが、変わると愉しくなるのは真心を優先できた自分のことが誇らしくそして好きになっていくからでしょう。変化のタイミングは自分の方を転じていくタイミングだとし、新しい挑戦を已めないで強めていきたいと思います。

人道の精進

世の中には天道と人道というものがあります。天の道は自然の道ですから、人間が中心ではなくあらゆるものを役立てて活かしていきます。人間にとっては都合が悪いことも自然は関係なく自浄していきます。たとえば物が壊れていくのも、虫が増えすぎるのも雑草が鬱蒼としていくのも、万物を創造し万物を破壊するのも天は選ばず、天は自然そのものだからです。

しかし人間はそうではなく、自分たちの中に善悪があり、自分の都合で役に立つか立たないかを選別してきましたからすべて人間都合で行います。だからこそ常に天道の自然に対して人道の都合が発生しますから常に手入れをしては修正を入れていなければ成り立ちません。

道路が傷むのを修繕するのも、崖が崩れないように保善するのも、また川に堤防を築くのも常に人間に都合が悪くならないように行っているのです。

これと同じく人間は常に自分を中心に物事を考えますから知らず知らずのうちに自分にとって正しいと思い込んだものに勝手に修正をしてしまうものです。つまり自分にとって役に立ち価値があるものだけにしていこうとしていくということです。

実際は人間は一人ではありませんからその人に都合が良くても相手には都合が悪いことが多々あるものです。そこで人間の世界ではルールというものを設けます。人間の都合は多勢に無勢か権力に左右されることが多く、結局は自分にとって都合が良いことを強く言う人に押し切られてしまうことが多いのです。今の政治を見ても一目瞭然ですが、その人物や一部の益がある人たちが優先されるようにルールを設けるのです。

人間がお互いの都合に折り合いをつけることができなくなればなるほどにルールは無限に増えていきます。しかしそうなると息が詰まるような人間関係の中で、お互いの権利を主張し合ったり制度だからと胡坐をかいては自分の都合ばかりを求めるようになり信頼関係が崩壊していくものです。

信頼関係というのは、お互いの都合をお互いが理解し合い、そこに思いやりという物差しを使って折り合いをつけていくことで積み上がっていくものです。それをどちらかがだけが我儘に自分の都合を押し切っていたら、信頼関係は崩れていきます。

それは人道というものが、お互いの都合で動いているものであるからなのです。だからこそこの手入れというものは、人道の最大の仕事といっても過言ではないと思います。

常に自らを修正し、周囲の都合を確認しつつ思いやりをもって自分を役立てていくということ。つまりは自分に役に立つかどうかで判別しているのが人間だからこそ、自分が役に立てるようにと常に自分が社會に役立つように所属する組織に役立てるようにと手入れをしていけば信頼関係はより強く絆も深くなっていくように思うのです。

人は信頼関係の中で自分を役立てているときがご縁を感じて幸せを実感できていることが多いように思います。自分の都合をどれだけ手放していくか、自分優先の欲求をどれだけ転じてみんなの善いことにしていくは、人道の精進なのかもしれません。

「自分がしてほしいことを他人にし、自分のしてほしくないことは他人にはしない。」これがまさに人道における至言なのでしょう。

自他一体になるほどに、自分が相手の御役に立っているという実感は自他を分けずにいる実践を行うということです。自我感情が見る目を邪魔をしたり、相手のことを気にしすぎたりするのは都合で分けている証拠ですから常に手入れをして人道の精進を積み重ねていきたいと思います。

自然は厭わない

昨日、出張から帰ってくるとベランダの山椒の樹に沢山のアゲハ蝶の青虫がひっついていました。葉っぱが食べられ、丸裸のようになった山椒は少し可哀想な感じもしましたが、青虫を別の場所に移したので一安心でしょう。

そもそも生きものに害虫益虫の違いはありません。

人間の都合が悪いものは害虫で人間に良いものを益虫と区別し、好悪感情次第でその時その場で判断しているのがほとんどです。これは単に虫だけのことに限らず、自分に都合の悪いのはデメリットで自分に都合の良いのがメリットだと仕分けては自分勝手に判断しているものです。

しかし実際は自分にいくらメリットがなくても、全体で観たら大きなメリットがあったり、自分にとってデメリットだと思っていても長く広い眼で見たらとてもメリットだということもあります。

自分の都合というものは、ほとんどが視野の狭い自分の料簡だけで判別されているものです。これを価値観とも言います。自分にとっての視野は価値観が左右します。その価値観は今まで育ってきた過程で染みついてきた自分の考え方と判断基準のことです。

それを壊すことができないと、自分にとってのメリットばかりを追い求めては価値観に囚われ、その価値観が壊せずに狭まっていく視野に自分を閉じ込めてしまうのです。

よく価値観が柔軟かどうかが大事だという言い方をする人がいますが、これは素直に物事を受け容れることができるかともいいます。自分の都合を優先せずに、物事の実相を捉えることができたり、自分の我執を手放すことができ、本質を保つことができるということでもあります。

日々というのは、様々な出来事に遭遇しますがそれを自分の好悪感情で判別するのではなく、実相は何か、本質は何かで判断できることで全体の一部としての自分の大きな役割に気づけて自分の存在価値を実感できるように思います。

存在価値から物事を考えてみると、青虫にも大きな役割があります。青虫はその卵のときから蛹になり成虫になるまで、沢山の生きものたちを活かします。寄生する虫たちの栄養になったり、その他の動物たちの食糧にもなり、花粉の受粉を手伝い、死して朽ちては蟻や菌類のものになります。

自然界には一切の無駄はなく、一切の損得はありません。損得というのは、その人本人の価値観と自分の判断基準と都合で行われるものですから全体から観ればそれはないのです。しかしこれに気づかないとおかしなことになってしまいます。

例えば、先ほどの青虫でいえば自分の嫌いなことはしない、虫にも食べられない、蝶になっても動きたくない、死んだら燃やしてもらいたいとか、色々と要求をしていたらその他の生きものたちが困ってしまうのです。

同じように人間も一人では生きられないのですから、自分の価値観や都合ばかりを優先するのではなくどうすればみんなが善くなるか、自分がどうしていることがもっともみんなの力になるかを考えて我執を手放していくことで心も軽くなり感情も穏やかになるものです。

自分にとっての嫌悪感といった嫌な感情は、一時的なものです。そういうものを乗り越えてでも誰かのためにや周りのためにと動く時、自分が偉大な存在に見守られている実感を味わうことができるものです。だからこそ「自然は厭わない」ように思います。

厭わないで努力し、嫌がらずに自分から動いていくことで価値観は柔軟になっていくように思います。自分が自分がと我儘をすると孤独になるのは、そういう自然のありのままの存在価値から離れてしまうからでしょう。

そのものの存在をありのままに認めることは自分の生き方次第かもしれません。自然の観察を楽しみたいと思います。

絶妙な自然の運任せ~樹木の戦略~

先日から樹木について書いていますが、樹木には種を残す数々の戦略が存在します。それはその種を風や動物、または水や重力、そのものが弾き飛ぶことで散布していきます。

その種の蒔き方もそれぞれが独自の形態で進化していますから、巧妙にそれぞれのやり方で試行錯誤した結果として戦略が受け継がれていきます。

今の時代に残っている戦略もまた、時代の篩にかけられてそれを耐え抜くことができた尊い戦略ということなのでしょう。

その樹木から学ぶことは本当に沢山あるのです。

私がとても大好きな言霊の一つに、空也上人の遺したものがあります。

「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」(空也上人絵詞伝より)

これを意訳すると、「山合の川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができるのだ。」ということです。

これを成語大辞典(主婦の生活社)によれば「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意だが、これを窮地から脱して安泰を得るという、世俗一般のこととして、このことわざは使われる。自分を大事と思って、我(が)に執着していてはなかなか道は開けてこないというのであると書かれています。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は広辞苑(岩波書店)では「一身を投げ出す覚悟があってこそ、窮地を脱して物事を成就することができる。」とあります。

先日、橡の実が池にポチャンと落ちては、小川を浮遊しながら水の流れにしたがって遠くへ旅をしていく様を見る機会がありました。障害物にひっかかったり、時には濁流に呑まれたり、色々と旅の最中は大変なのでしょうがきっとそこで流れ着いたところを受け容れるのでしょう。

種がどこにたどり着くのか分からないと不安がり、また水に沈むのではないかと心配したりしていたら種を落とすことはないように思います。もしも人間のように自分の都合で種のタイミングを計ったり、種を落とすのを出し惜しみしていたら、種を落とす間もなくそのまま枯れてしまうかもしれません。

実際はどうなるか分かりませんが、種がどのように広がるのか、それはまるで運任せともいえます。しかしこの運任せということに生き残る智恵が潜んでいるように思えてなりません。

自然界というものは、あるがままを受け容れ、あるがままを許します。その天地の恩恵の中に見守られている真心を感じているからこそ、疑わず自分の身を捨てても厭わないというような戦略を発揮できるように思うのです。

人間にはとかく我執がありますから簡単にはいきませんが、その戦略から自分を奮い立たせ学び直し、そして信じるという実践に転換してきて生き残ってきたのかもしれません。この橡の実の覚悟に人間が無常観を悟るのもまた、生死を度外視するいのちの真価に目覚めるのかもしれません。

周りを見渡せば、あらゆる実践事例に育まれて生きてきた仲間たちが沢山います。今年はイチョウとタブノキを中心に深めてみようと思っています。またブログで紹介していく予定です。

色々と世界の難題は山積みで時折、問題意識ばかりが頭を擡げますがこういう時こそ明るく開き直って絶妙な自然の運任せ、子どもたちのためにもその浮かぶ瀬までの旅を楽しみたいと思います。

 

 

自然明

自然と農を実践していく中で、風が様々な生きものたちに大きな影響を与えているのを実感します。

例えば、風は気温、気配、香り、水分の量、その音、そのリズム、通り抜けてきた場所の感じなど様々な情報を伝達していきます。植物はその枝や幹の肌、または葉によって風に揺られながら情報を入手していますし、動物は身体の毛を揺らしながら皮膚や匂いや呼吸を通して情報を入手します。

もともと自然の生き物たちは、風の音色をよく聴いては自然のリズムを体感しているのかもしれません。もちろん風の音色だけではなく水、火、土、石、様々に自然は音を奏でますからその音色を感受するアンテナが高いからこそ私たちのように知識を使わないともいえます。

現在は、そういう直感的に理解するものがあまり評価されない時代になっています。さも考え抜かれたもの、理論的に優れたものが価値があるかのように勘違いしてしまいます。自分がそもそも刷り込まれた知識の中にいて、その中の価値観から抜け出すことをせずに、自分だけが正しいと思い違いをしているのが人間なのかもしれません。

自然は正直で素直ですから、そのまま感受することができるのでしょう。

自然の言葉というのは、昔から職人さんたちが使う言語の中に入っていたように思います。職人さんが「あまり勉強ばかりしているとバカになってしまう」ということをよく話すのも似たようなものでしょう。

自分の中にあるものをどう引き出し、どう体得していくのかというのを自明と言います。自明とは、自らが然るがままに明らかにしていくということです。自然明ともいうのでしょうが、それは自分の中にあるものの感覚を高めていくしかありません。

それは善く気づき、善く学び、善く遊び、善く味わい、善く覚るということを続けていく中で自分の内面の奥深い自然観を高めていくことだと私は思います。

私が自然農を行う理由も自然に学ぶ理由もすべては、一度学びこんだものを如何に忘れ去るかということを大事にしているからです。一巡している学びを同時に消化しながら前に進むというのは、自らで然るがままに会得することを重んじているからかもしれません。

元来、文字がなかった時代は何から学んでいたか、言葉を使わなかったときは何から学んだか、人間は思い違いをして真実を見失っているのかもしれません。

自然には音色がありますが、人間にも音色があります。それは心や感情が研ぎ澄まされることでよりアンテナは鋭敏になっていきます。自然は風音によって伝えます、人間は言霊によって伝わります。

発信することも受信することも、それは自分の中の自然明に由るのが最善なのでしょう。

学ぶことが愉しいのは、体験できたり実践できる幸せを生きるからかもしれません。同時に学ぶ楽しさは譲る歓びですから、子どもたちに生き方が遺せる可能性があるということが幸いなのでしょう。日本の麗しい風土に恵まれ、その優美な風土に育ててもらって大人になっているのだから、御恩を忘れず自然の言霊を謳歌しながら自然明の生き方を子どもたちの傍に広げていきたいと思います。

いつも新鮮な学びは、かんながらの道の中です。

積算の法理~いのちの熱~

先日、徳について深めているとある発見がありました。

生きものというものはその体内に徳を有しているものです。その徳は、四季に影響を受けているものです。人生を四季に例えるのも、またその徳の流れによるものです。いのちは周囲と共に発達し発展しますからそのものだけで生きることはありません。知らず知らずに受けているのが周囲の恩徳ということです。

これを少し自然界を用いて説明してみます。

生きものというものはすべてにおいて積算温度というものがあります。今、身近で育っている烏骨鶏でも卵を孵化するのに約21日以上の積算日数がかかります。同じく変温で生きる昆虫も卵が孵るのにはそれぞれに積算温度が要ります。これは植物でも同じく、冬から春にかけ、また夏の暑い時期に成長していくために必要な積算温度があるのです。

言い換えれば「熱」というものですが、この熱は地熱、太陽、いのちの熱ですがそういうものを体で受け取りそれを代謝することで生き物たちは活動することができるのです。

人間も10月10日間、母体の中での積算温度があります。そして母体から出てきてからも、周囲の温かい真心や周囲の体温によって育まれていくのです。

いのちの全てには「積算」という考え方、つまりは「積む」という概念が存在します。そしてこれは一体何を積んでいるかということなのです。

自然界ではこれを「徳」と呼ぶのでしょう。人間は徳を勘違いしていますが、私にはこの積算温度が徳であるのを実感するのです。

私たちが共に生活するこの地球には温度があります。

その温度の恩恵を受けて私たちははじめて生きられますから、生きている以上温度を感じないということはありえないのです。温度があるということは、その熱により活かされているということです。

農業では、積算温度計といってその積算温度から逆算して収穫を測ったり、虫たちの発生を予測したりするそうですが、人間も同じくその熱を測ればどの時期に開花するのか、実をつけるのかもある程度予想できるのかもしれません。

だからこそ徳を積むという考え方は、徳によって活かされているという言葉になるのです。徳に報いるというのは、その熱をいただいているからこそその熱をより周囲への熱に転換していこうとする自然の生き物の「ハタラキ」なのでしょう。

生きものたちは地球の温度とリズムに対して絶妙に熱を測ります。その熱の中でどの時期に産まれればいいか、どの時期に出てくればいいかを知っているのです。たくさんの生き物たちが出てくるときに出てくればいいのです、易経では潜龍といいますが、潜龍もその熱を感じて昇龍の時機に合わせて徳を積算していくのでしょう。

徳の積算とは、熱の積算です。
言い換えれば熱の伝導とは徳の伝導なのです。

積み重ねていく日々をその温度を感じながら弛まずに怠らず成長を味わい、その熱を周囲へと伝導し、未来への子どもたちへと徳を譲り渡していきたいと思います。