樹木についての共生は運命共同体だと書きましたが、貢献についてここでもう一度深めてみます。
そもそも樹木に限らず、すべての生命は自分たちの種を遺すことを使命にしています。自分たちが今まで生きているということは、かつて様々な気候変動や環境の変化の中で生き抜いてこれた変化があったということです。
その変化は今の時代でも続いていて、常に生き物は変化に対して適応していかなければ子孫を残していくことができないのです。温暖化や寒冷化でもそうですが、その時代時代の変化の中で命を懸けて真摯に真心で生き切ったものが、次の子孫に突然変異をもたらし次代の環境に適応させていくのです。
例えば菌類などもそうですが、常に生まれ変わる中で変化をつくあげていきます。何世代も何世代も生死をめぐり繰り返す中でもっとも環境に適応する種を創り上げていくのです。
共生も同じく、そのものの種を遺すために、その環境や人物と調和していこうとする力、種を遺すために共存共栄していこうとする意志がいのちの中には存在するということです。共に歩む者たちが似てくるのも、共に必要としあう物たちが近づいてくるのも、同じく共存共栄の定理に沿ってのものです。
そして貢献というものは、自然界ではどういうことかといえば生きている過程で大きな無駄を発生させていくことです。
例えば、樹木でいえばドングリなどもそうですが何万個の種を地面に落としてはほとんどすべてが何かしらの生き物たちの食糧になります。その中から1本以上の木が実をつけることができればそれで繁栄できるのです。ほかにも、果実を持つ樹木もたくさんの果肉を提供しては種を飛ばしてもそのほとんどは人間からみれば無駄を発生しているように感じるものです。
しかし発展と繁栄というものは、その無駄多きことの中に存在しています。その無駄はそのものにとっては無駄であっても、周囲にしてみれば決して無駄ではないのです。
人間は軸足が自分にだけ向いていると、その無駄を嫌うようになるものです。自分の物差しで価値を判断し、自分にとって利益があるかないかでその無駄を測るのです。しかし実際は、その一見無駄とも思える中に他への貢献があります。だからこそ自然は、貢献を重んじるのです。
「自分が一生懸命に真心で生きればそれが誰がのためになる、自分の実践が誰かの勇気や元気になる」という言葉も貢献を志す言葉です。貢献したいと願う理由は、そこに確かな子孫繁栄への道筋が存在しているからです。
貢献していくための無駄というものは、その人物にとっては無駄でも、決してそれは全体にとっては無駄ではありません。如何に周囲のために自分を使い切っていくか、如何に全体の為に自分を遣り尽くしていくか、その行動と実践、それが人事を尽くすということです。
そうしていえば、天や自然が必ず善いことにしてくれるということを生き物たちは直感しているのでしょう。進化というのは発達と発展であると私は確信していますから、その発達と発展とは、共生と貢献であるということです。
自然は当たり前の真理を私たちに思い出させてくれます。知識ばかりが多くなって、シンプルな本質も分からなくなっているようでは刷り込みに負けてしまうのは当然です。
最後に種は旅をするということを教えていただきました。旅とは古くは、タベ(たまわれ)とかタビ(他火)という語源が示すように旅は苦行ともされていたそうです。生業を旅まわりともいうように旅を通していのちは無限の生長を已まないということでしょう。
旅そのものが学びであり、旅そのものが人生なのだから、旅を通して浄化し刷り込みを取り払い、常に苦しいながらも楽しむこと、その進化と変化そのものが愉しいというような一期一会の「子ども第一主義の旅」を味わっていきたいと思います。