二宮金次郎正伝(モラロジー研究所)という著書がある。これは二宮尊徳の子孫で総本家の現当主が金次郎の人生の軌跡を再現したものです。
もともと二宮尊徳は死期に及んで「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と日記に書き記しています。
実際の人生は、周りが解説したり政府が勝手に解釈したものを編纂したりしたもので理解できるものではなく、金次郎の日記にこそ真実が書かれているということでしょう。同じことを論語、大学を記した曽子が臨終の際に弟子に語ったのがこの「予が足を啓(ひら)け、予が手(て)を啓け。詩に云う、戦々兢々として深淵に臨 むが如く、薄氷を履(ふ)むが如しと。而今(いま)よりして後、吾免(まぬか)るるかな、小子(しょうし)。」があります。
どれだけ必死に道を守り通してきたか、どれだけ真摯に信念を握り続けてきたか、その軌跡に実感するのです。どの時代であっても、理想の政治が誰にしろ受け容れられるわけではなくギリギリの状態で取り組んできたのがわかります。
君子もとより窮すと論語にもありますが、そもそも苦しい状況の中を歩んできたのです、死してのち已むという心境はようやくここまでで尽きるといった道の厳しさを説いているようです。歩んできた人にしか分からない境地がそこにはありますし、それは道を歩み切った方々が臨終が近づくについて実感できる境地なのかもしれません。
人は必ず死を迎える日が来ますから、それまでどのように生きたかというのは死に顕われるものなのでしょう。後世の人が改ざんしていいところ取りをしていきますが、本来、手に取るべきものはその人の日記にこそあるのかもしれません。
以前、慈覚大師円仁の日記を拝読し感銘を受けた時も同じ感覚でしたし、高杉晋作の日記の時も同じでした。実際に周りが評価している人物像とはかけ離れたものがその日記にはあり、道を歩んだ人の心に近づくには日記を読み解くことが大事なのでしょう。
その二宮金次郎正伝の中に素晴らしい言葉と出会いました。
「本来君ありてのちに民あるにあらず、民ありてのち君おこる。蓮ありてのちに沼あるにあらず、沼ありてのちに始めて蓮生じるものなり。」
意訳ですが(本来は君主があってから民衆があるのではない、民衆があってのちに君主がおこってくる。蓮があってから沼があるのではなく、沼があるからこそはじめて蓮が生まれてくるのだ。)という意味です。
本来は組織も同じく、スタッフの方々があってこそリーダーはおきます。リーダーさえいえばスタッフがあるわけではありません。同じく民衆があってこそ政治があり、政治があるのは民衆の安寧が先だということです。
あの藩政を優先して一部の方々が利益を独占していく時代に、孔子と同じく理想の政治を説き、そし具体的に荒廃を癒し復興改革する心田開発の技術を持ち、私達に一円融合する生き方を示してくれた聖人、それが二宮尊徳です。
私たちは今、世界を含めて大変危険な状況に陥っています。世界人口増加、貧富の差の拡大、消費が生産を上まわり、生きものたちの絶滅速度は急激に広がっています。このままでは、欲があらゆるものを呑み込み止められなくなってしまうかもしれません。文明が崩壊していくとき、いつも同じことで乗り越えられずまた同じことを繰り返してしまいます。
同じことが起きるのは今度こそはという人類の文明実験であるのは論より証拠です。その今度こそに二宮尊徳の思想と技術は私たちが子孫繁栄するための要になると私は信じています。
最後に尊徳の言葉で締めくくります。
「天つ日の 恵み積み置く 無尽蔵 鍬でほり出せ 鎌でかりとれ」
天地自然の恵みは無尽蔵なのだからそれを掘り出すのも刈り取るのも自分次第なのでしょう。日記が続いていることを忘れずに、心の希望を勇気に換えて、その徳の無尽蔵を自らが掘り起こし、取り出して子どもたちや多くの方々にその真心を伝承していきたいと思います。