社會人になりたての頃、自然環境の仕事がしたいと環境にやさしい仕事を探していたことがあります。エコという言葉が出てくる前から、どうやったら環境を汚さないですむかということを考えて石油系の合成洗剤を川に流さないで済む方法などをヨーロッパをはじめ世界の国々の先進的な取り組みを調べたりしました。
その後は、合成洗剤を使わない自然の洗剤や水をアルカリ化するものなどをつかい自然や人体に悪い影響が少ないものを会社に提案し取り扱ってもらったりしました。そこで学んだことや知識を使って出会う人たちに如何に環境を考えることが大切かを説いていました。
しかしそのうち、かたや環境を破壊していく商品が流通し、かたや環境にやさしいといった商品が流通している矛盾を感じたことと人間そのものがそれを創りだしていることを目の当たりにし受け止められず動けなくなってしまいました。
そんな時、なぜこの世の中はこうなっていくのか、誰がこうしているのかを見つめていたら幼いころの環境がとても大きな影響を与えているのを知ったのです。もし産まれた環境があまりにも自然から離れていたら、人間は自然がないことが当たり前になります。また逆に産まれた環境が自然であれば自然があって当たり前になります。
これは産まれた時の刷り込みであり、最初に与える環境がとても大きいことを知ったのです。ある保育園で、40年ぶりに訪ねてきた人がかつての園児で園長がその人の癖や嗜好などを全部言い当てていました。人は何十年経っても、幼児期に体験したことを忘れないということを肌で感じたのです。
それから環境に対する考え方が一変しました。
そもそも環境とは自然環境の方ではなく、人間環境の方であったということにです。環境を産み出しているのが人間ならば、人間の環境を変えな変えれば半永久的に環境を改善することができないと自覚したのです。
結局、自然は自然ですから環境はそのままに自然です。しかし不自然な環境を産み出しているのが人間ですから環境は人間が創造しているのです。その環境を創造する人間の環境を誰かがちゃんと向き合って受け止め、どのような環境が人間に必要なのかを正しくしていく必要があるのです。
それが教育の本質でもあり、幼児教育の場合はあらゆる自然社會科学を発達という真理に照らして周囲の人間たちが環境を示す必要があるのです。その環境とは生き方のことです。
人間は移動していく生き物だし、人間は道具を用い、知識を使いますから余計に自分たちの生き方を決めなければなりません。そういう生き方を決めることこそ環境を用意することであり、生き方を決めた人たちが示す道に見守られ子どもたちは自分たちの環境を選んでいくのです。
人間が変わらなければ環境は変わらないということは自明の理であり、天は正直であることをずっと尊びました。これは正直であるというのは、嘘がないということであり畢竟、人間が誰かのせいや何かのせいにするのをやめなければなにもはじまらないことに気付いたのです。
エコという名のエゴだったり、エゴを通してのエコも、どれもこれも自分を変えなくても済む方法で正直ではありません。正直に生きるというのは、自分の生き方を見直し、その生き方を実践していくことに尽きるのです。
求めてきたことと出会いの御蔭様で、本当の環境に気付くことができました。今では環境の羅針盤である発達という自然の手ほどきも受けることができています。愛し愛される仲間にも巡り合い、自然の生成力の素晴らしさに感動する日々です。
自分という一人の存在が環境の一部であるということが環境への影響力です。
引き続き、体験を整理してみたいと思います。