方向性~旅の道しるべ~

人はその人を理解しようとするとき、一体、この人はどの方向性を目指しているのかを観ればその人の本質がわかるように思います。それくらい人は方向性というものを大事にしているということです。

もしも人生が旅だとしたら、道を歩んでいくなかで日々に様々な紆余曲折と出会います。ある時は、草むらの中を通り抜け、ある時は山をくだり、またある時は漆黒の闇の中を通れば、またある時は涼やかな風が吹き抜ける草原を通るかもしれません。

その時、その場所やその道に捉われ、自分が今どこにいるのか分からなくなってしまうかもしれません。また過去通った道がいつまでも忘れられずいつまでもその道を探してしまうのかもしれません。

しかし旅は前に進みます、それは地球が宇宙の中を回転し自転するように、すべての生命が等しく年を経て生から死へと変化するように進むことは已みません。

そうすると、同じところに留まることはできず必ず日々は通り過ぎていくのです。立ち止まってみても通り過ぎるのだから時間というのは旅をしている証拠、つまり「時は人生の旅人」ということでしょう。

その旅で自分を見失い、今いるところがわからなくなり、これからどうしていいかと迷うことは大変不安なものです。それはまるで知らない場所で迷子になったかのようになります。

人生は畢竟、今回の旅で何処まで往きたいかということを決めて誕生してきたのかもしれません。ただ道草だけをするのも愉しいのですがやっぱりここまでは往きたいと目的地をもっているのでしょう。

だからこそその目的地を定め、その目的地に向かっているかを確認することで人は方向をブレナイように歩めるように思います。人生の目的地は、単なる旅の到達点ではなくその旅のプロセスに意味があるように思います。

また旅を伴にする仲間や伴侶に出会うことで旅のプロセスは麗しく善き掛け替えのない豊かで美しい記憶になります。

それ故に皆の目指す目的地に向かうプロセスそのものである理念を定め、道の方向性が間違っていないかを常に確認することが最終的に自分が辿りつきたい場所に往くための道しるべになるのです。人生の目的地とは終わりのない旅をするのだから永遠の道中そのものであるのです。みんなで旅の往き方を定めるというのは、どうやってみんなと生きていくかを定めるということかもしれません。

そう考えて顧みてよく観ていたら神社の眷属も、熊野の八咫烏も迷わないようにと導いてくれた存在です。

その存在の有難さを実感しながら心のお守りを持ち、心の眼を開いて信念を杖に歩んでいくのが道ということなのでしょう。太古の昔からつながっている道の上を今の私たちが歩んでいるというのは「方向性」を確認しているのかもしれません。

方向性が間違わないように、常に方向を正して実践を積み上げていきたいと思います。

価値観

人間には価値観というものがあります。これは個人から見えている自分の視野ということであり、その人が生きてきていろいろな知識を持つことでその人の頭の中に思い込み作りこまれた世界があるということです。

その人の置かれた環境に左右され、その人がかかわった人たちや出来事にも関係しますが次第に自分の世界はできあがってきます。それは年とともに凝り固まってくるともいい、見えている世界が動かなくなっていくかのように価値観も固まってきます。

人間は、基本的には目で見ているものを信じます。食べるということでも、見た目でおいしいと思い込んでから食べることが多いのもそのためです。実際に目を瞑ってみて食べると舌の感覚が戻ってくるように、ほとんどが目で今までの経験からこんな味だろうと思い込んで食べていることが多いのです。人の好き嫌いも同じようなものです。

それくらい人は視覚に頼って生活しています。その視覚とは視野ですが、そこにも視野の狭さと広さというものが関係するのです。価値観が凝り固まると視野が狭くなり頑固になってしまいます。その逆に視野が広いというのは、素直で謙虚であるということで自分だけの価値観(世界)で物事を見るのではなく、多様な価値観(世界)から自分を観ることができるということです。

人は一度思い込んでしまうと自分を正当化しては他を責めるものです。そうして他を責めることでまた自分の世界を守ろうとするものです。しかし世界の真実は自分だけの世界を優先させるほど歪むことはなくありのままのものを見せてきますから苦しみはまた増大していくのです。いくら頑固に自分を守り続けていても、そこから前に進まなければならないときは受け容れるしかないのです。だからこそ自分から人の話を素直に聴く、自ら質問して受け容れるというように、心をオープンにし、あらゆる価値観に柔軟である自分を認めて育てていく必要があるのです。

自分の世界を変えるというのは、多様な価値観を受け容れるということです。言い換えれば”自他を責めずゆるす”ということです。もしくは、常に思いやりを実践するということです。

そうすることで、自分の価値観は雪が解けていくかのように流れていき次第にそこから真実が表れてくるように思います。雪が解けるかどうかは暖かい周囲の思いやりが必要ですし、その人そのものを認めて安心できるような愛情も要ります。

常にその人の善いところを観てはその人の価値観を受け容れる訓練を自分自身が実践しているかどうかが重要なのかもしれません。否定しないという訓練といっても過言ではないでしょう。人は同じではないから学ぶところがありますし、同じではないからそれぞれに役割というものがあるのですから凝り固まった思い込みを持つというのはそれぞれの特性を活かせないということになります。

正しいということをもっと広げて観れば、本当にそれが丸ごと全体に対して最善かまで突き詰めるということです。自分がどうしていることがもっとも世界のお役に立っているかを多様な価値観を受け容れつつ見極めるということです。

その実践は自他に対していつも善いところを素直に観て、謙虚に聴く信じる実践が多様な価値観を尊重していく生き方のことなのでしょう。

認めるというのは時にはつらく苦しいことかもしれませんが、もしも相手が自分だったらといつも思いやりを大切にご縁に感謝できる御蔭様と有難さのままで引き続き修身修行をしていきたいと思います。

 

かんながらの道~大和の心~

人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。

私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。

これを私は「大和」と呼びます。

私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。

人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。

その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。

人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。

この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。

安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。

「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)

自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。

そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。

自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。

最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。

「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」

人生には一つの不自然もなく自然である。

そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。

 

取捨選択との正対

物事には必ず陰陽があります。

月夜半分闇夜半分、拾う神あれば捨てる神ありというように、一長一短の側面があります。

これをどう活かしていくか、これをどう吟味していくかに人生の面白さがあるように思います。色々なことを発見するのも愉しいことで、日々に気づき新しいことをやりたい気持ちは湧き上がってきます。しかし人生は一度きりで有限ですから膨大に広げてみても為し遂げられることと為し遂げられないことがあります。そんな時は取捨選択していくしかありません。

何のためにこれをやるのか、心が定まることで今何をすべきかを正すのです。

好奇心というものは、常に心を開いていますから何でも見つけてしまいます。しかし何でも見つけて何でも行っていると目的を絞り込めず注意力散漫になり一つ事に集中できなくなってしまいます。

これでは本当に成し遂げたい成果が達成しなくなるかもしれません。もっとも大事なことに絞り込み、それに集中することで人間は可能性を高めていきます。可能性を拡げることと可能性と高めること、それは拾う楽しみと捨てる苦しみ、捨てる歓びと拾う悲しみなのかもしれません。

人間には人情や我欲がありますし、そう簡単に今まで信じてきたことをご破算にしていくことはなかなかできません。如何に自分に打ち克つかというのは、如何に目的のために絞り込んで削り取っていくかということかもしれません。

PFドラッガーの「プロフェッショナルの条件」にこういう言葉が残っています。

「成果をあげる秘訣を一つだけあげるならば、それは集中である。成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない」(ダイアモンド社より)

またこうも言います。

「成果をあげる人は、多くのことをなさなければならないこと、しかも成果をあげなければならないことを知っている。したがって自らの時間とエネルギー、組織の時間とエネルギーを一つのことに集中する。最も重要なことを最初に行うべく集中する」

なんでも遣っている方が効率がいいと思う時機から、これをやり遂げなければ効果がないと思う時機への変化というものもあるのかもしれません。そしてこれは仕事のやり方ではなく、人生の生き方の遷移が必用な時期に差し掛かったのかもしれません。

私もちょうどそういう年齢になったと自覚してきているのかもしれませんが、自分の原点が何か、真摯に取捨選択に正対しじっくり思案していこうと思います。

社會や世界に対しての自分の責任をどう果たしていくか、常に自問自答していくことを已めないでいようと思います。

運の善さ~早起きは三文の徳~

人は運の善さというものがあるように思います。

いつも運が善い人と運が悪いと言っている人がいますが、これはその人の生き方のことを言っているように思います。運が善い人というものは、信仰心が高い人とも言えます。自分が何か偉大な存在に見守られ歩ませていただけていることに感謝の心を持っているということです。

自分のことが信じられるというのは、見守られていると実感することです。そしてそれは見守ってくださっているから安心して前進するということでもあります。

昔から早起きは三文の徳ということわざがあります。

これは早起きをすると何かしら善いことがあるという意味ですが、これは信仰心がそうさせるのではないかと今では確信します。早く起きるのは、御蔭様に気づくからです。そしてそういう見守りの存在に気づいているから早く目覚めその感謝の心のままに動いてみようと思うのです。

感覚的ですが人は結果が視えていれば動くというタイプと、結果が視えていなくても信じているから動くというタイプがあります。前者は運が悪いと言っている人が多く、後者はいつも運が善いと言っている人が多いように思います。

これも運が善いというのは、「きっと善いことがある、きっと善いことになる」と信じているからいつも運が味方するのでしょう。そうやって善いことがあり善いことになると信じているから朝早起きして動くことができるのです。

畢竟、運の善さというのは信仰心、運に包まれている仕合せを信じて歩んで往こうとする生き方が習慣になっているのです。つまり運とは、「活かされている」という存在に目覚めているということです。活かされている存在の自覚こそ信仰心であり運の善さということです。

私にとっては南無阿弥陀仏もアーメンも、同意義として「おはようございます、おかげさまです、ありがとうございます」のあいさつの中にすべて入っています。そしてまずその最初の実践は、「お早うございます」に他なりません。

早起きとは信の実践そのものであり、運を信じていますという合図なのです。

夏期実践休暇にての報告をまとめていますが、今年も偉大な存在の導きと、そして偉大な存在の見守りの中で自己の気づきと目覚めをいただきました。心を澄ませて、心新たにまた挑戦させていただく有難い日々を精進していきたいと思います。

 

 

視野を変えるということ

吉田松陰の松下村塾に飛耳長目録というものがあります。これは自分が見聞きしたもの、また塾生たちが見聞きしたものを記録に残しそれをみんなで読み合わせをして情報共有をはかったものです。

この記録はそもそも自分という存在が世界を変える存在であるということを認識する広い視野を育て、自分自身が見聞きして発信したことが多くの人達に気づき影響を与えることを自覚することにも役に立ったのではないかと思います。

あの当時、インターネットやテレビ媒体がないなか、一田舎の農村で育った青年がまさか自分が世界を変えようとは思えなかったはずです。しかしそこに松陰が顕われ、何のための学問なのかを背中で示し実践で感化したからこそそこで育った若者たちがその後の世の中を変革する原動力になったように思います。

そしてここで大切なのは「視野」のことなのです。

自分の視野というのは、自分だけのことしかみえないときは世界は自分と切り離されています。自分が実践を怠ったってそんなに意味がないと思えるでしょうし、別にちょっと手を抜いても問題ないと思えるのでしょう。

しかしもしも自分の実践が一つ怠ることで世界が変わるとしたら、周りが変わってしまうとしたらどうでしょうか。その自分の存在の怖ろしさに心身が震え上がるはずです。本来、世界の広さというのは別に地図で理解するものではなく、遠く広大なところなどと認識するものではありません。

そもそも誰かに刷り込まれ教化された世界などというものをいつまでも世界だと信じ込んでいるから世界観は育たないのです。世界とは、自分の視野です。自分の視野が世界なのだから自分の視野を変えてしまわなければ世界もまた変わることはないのです。

人は信じ込まされた世界がどちらが理想かで信じる世界を顕現させます。自分が先に諦めてしまったり、自分が先に絶望してしまっていては世界は今のままかもしくは今よりも悪くなる一方です。

そんな中、常に世界を自分の求めた理想に近づけよう、世界平和と人類和合を願う真心があるのならその世界にしていきたいと「自分を変える」、自分の視野を入れ替えるくらいの信心と努力、精進が必要なのです。

人ばかりを変えてもらおうとするのは自分の都合というちっぽけな視野に囚われているのです。そうではなく、自分を変えて世界を変えようと自分の視える世界を変革するものこそ君子であろうと私は思います。

実践は怠ってはならないのは、この刷り込まれ教化された世界に埋没するからです。何がなんでも埋没しない、何がなんでもマンネリ化しないと戒を持つことでまた自分を練り修行していくのでしょう。

学びは果てしなく続きますが、同志たちとの邂逅もあります。

仕合せは視野によって開かれますから引き続き歩みを強くしていきたいと思います。

視野の寛さ

視野について思うことがあり、深めてみようと思います。かつて、数々のリーダーが視野を広げる事の大切さについて語っています。有名なものに荻生徂徠の「飛耳長目」があります。これは吉田松陰の松下村塾のもっとも大事な学びの基本に据えられたものです。

言い換えれば、何よりも「視野を広くしなさい」という智慧の教えです。

 また松下幸之助に下記のような言葉があります。

 「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける」

 これはその通りで、視野が狭いというのは言い換えれば自分のことしか視えていないということです。もしくは自分の価値観でしかものごとを捉えることができないという意味でもあります。物事の見方には、単眼と複眼というものがあります。単眼とは文字通り自分からだけの目線、複眼は相手や周囲、世界からどう観えるかという目線です。

 そしてこれらの単眼以上の視線というものは、須らく共感力から行うことができます。共感力は思いやりですから、出来事を自分事と他人事とを分けてしまう時点で迷惑をかけていることに気づかなくなるということです。

 若い時というのは経験が少ないこともあり、自分の視えている世界だけがすべてだと思ってしまいます。価値観というものはそれだけ自分の中にどっぷりつかるものだからです。しかし本来、何のためにそれを行うのかが大事で、世界を変える力をもつ自分の変格力という問題意識なかなか持とうとしない限りは持てないのかもしれません。

 続けて松下幸之助はリーダー論の中で、視野の広さについてこう述べています。

 「今日では、世界の一隅に起こったことも、それが瞬時に全世界に伝わり、さまざまな影響を及ぼす。そのような中で、自国の範囲だけ、自分の会社、団体の範囲だけの狭い視野で事を考え、行動していたのでは、往々にしてあやまちを犯すことになってしまうと思う。いま、視野の広さというのは、指導者にとって、欠くことのできないものであろう。指導者はみずから世界全体、日本全体といったように広い範囲でものを見るよう常に心がけつつ、一国の運営、会社や団体の経営を考えなくてはならないし、また人びとにそうした広い視野を持つことの大切さを訴えていかなくてはならないと思う。」

 ここで大事なのは広い視野を持つことの大切さを訴えるということでしょう。

 結局は、自分たちが行う実践や自分たちの生き方が、自分の周囲を易えて、自分の所属する組織を易えて、業界を易えて、日本を易えて、竟には世界をも易えるという考えを持ちなさいということです。

 自他を分けて自分くらいというの意識そのものが周りに大きな心配をかけ迷惑をおこしていることに気づく必要があります。それは懺悔ではなく、それだけの存在である自分、それだけ世界の一員である自覚と誇りを持てということなのでしょう。実践を正しく行うのも間違い怠るのもその人の持つ視野の問題ということでしょう。

 世界は一人一人の気づきと変革の集積によって出来上がってきた産物です。だからこそ自分の生き方次第で、それが大きな影響を持つのです。たとえ大河の一滴である自分のいのちであったにせよ、諦めずに自分を易えることで理想の世界を求めていきたいと思います。

 視野の狭い人間にならないように、心を常に寛くもち内省し周りを慮り、自他を同一に思いやれる真心の生き方を実践していきたいと思います。

優しく集う仲間たち

人生の中で、信頼できる仲間がいることほど幸せなことはありません。特に人間は群れで集団で生きていく生き物ですから、周りを信頼し助け合う豊かさで厳しい自然環境の中でも慈しみあい暮らしてこれたのです。

だからこそ人は仲間が欲しいのです。

人は独りでは何もできないのだから沢山の仲間たちと一緒に取り組むことではじめて大きなことが為せるように思います。それは多様な価値観があるからこそあらゆる事象に順応していくことができるのからです。これは人間は脳が教化されたようなもので仲間をつくるのではないということです。それは心がはじめて仲間と思えるかということだからです、そして仲間とは心から信頼し合えるということです。

人は志を観る時、その人を信頼します。なぜならその人の心が形に顕われているものが志だからです。同志というのは、志を信頼し合う者たちということでもあります。だからこそ、価値観を受け容れることができ、だからこそ深い絆を持ち合えるようにも思います。

吉田松陰に下記のような言葉が残っています。

「自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。」

本当に大事なことであろうと思います。人はみんな一人では生きていけません。沢山の人達の支えや見守りに助けられてようやく一人立ちできます。自分も昔は何とか一人でやろうと無理をし責任感から強くならなければと頑張りすぎたことで間違った強さばかりを求めて孤独になってしまっていたことがあります。

人を頼るということを情けないと思い、何でも自分で遣った方がいいと信じていた時期もありました。しかし自分一人では何もできないと思うことよりも、もしも相手が自分だったならと思うともっと頼ってほしいと祈り、何でも一緒にやろうという気持ちが湧き上がってくるのです。

人は自分の弱さを受け容れることと、人の気持ちを自分のこととして思いやれることではじめて本当の意味で強く優しくなれるように思います。間違った強さと間違った優しさは、結果的に自分を苦しめるだけではなく周りとの絆も頑なに拒否し頑固に自分の価値観を通そうとする我儘につながってしまっていただけなのです。

人の価値観を受け容れるということは、はじめて思いやりを持てる人になったといっても過言ではないように思います。それは自分に都合がわるくても、その人がそう信じるなら自分も一緒に信じようとする和の心、八百万の神々を認めてきた祖神と同じ真心になっていくことかもしれません。

強くなることが優しくなることではなく、優しくなるからこそ強くなるのです。力に呑まれず心が先んじるような生き方をこれからも選んでいきたいと思います。

水の流れ~自然技術の妙~

自然農園の田んぼに出てみると本当に沢山の虫たちに驚きます。

稲の周りには、トンボやクモたちをはじめ、水中にはゲンゴロウにエビやカニワナ、数えきれないものたちが生活を一緒に営んでいます。不思議ですが、4月まではそこには水中生物ではない生きものたちの棲家であったものが今ではすっかり別の生きものたちに入れ替わっています。

環境が変化するということは、そこに棲まう生きものたちも変化するということです。

如何に環境が大切なのかということを実感します。

またその環境を左右するのが水であることは明白です。この水というものは、如何に生物たちに多大な影響を与えているかが分かります。水の流れというものを通して、光や風を感じるのが生命です。その水は生命を活かすのです。水が澱むことで腐敗をうみ、水が通ることで発酵をうみます。つまりは水を如何に通すか、水が如何に流れるかが大事ですがその水も適量な水量と適切な水流がいるのです。

田を学んでいると如何に「水」というものがキーワードになっているのかが分かります。あまりにも当たり前すぎて見過ごすところですが環境を学ぶのにこの水の流れというものの自然の技術の習得が必要なのでしょう。火や水、土や木、光など自然を使って技術化したところに人間文明の進化発展してきた真実があるのでしょう。

学びははじまったばかりですが、山から流れてくる清らかな水に心も体も研ぎ澄まされていきます。水は流れているときに水の徳性が顕現するように思います。流れる水に心を澄ませ、自然の技術を会得し祖神たちの恵みと智慧を復興していきたいと思います。

精進

精進という言葉があります。

そもそも精進とは何をもって精進か、それは単に努力をし怠けないことをいうのではなく理念に対して真摯に実践していくことをいうように私は思います。

何のために努力するのか、その何のためというのは大変重要なことです。しかし実際はこの何のためということに立脚せずに物事の善悪を自分の都合で解釈して努力していても、それは間違ってしまうこともあるのです。

理念を持つ、理念を発するということは、この何のためにということへの根本を正すことに他なりません。

そしてこの理念があってその理念を飾るのではなく、本心から理念に沿って実践に取り組み続ける日々を送ることではじめて精進ということになるのでしょう。

道元禅師の遺言に「諸々の善法において勤修すること無間なるを精進」とあります。

これは意訳ですが天地の道理にしたがって至善に止まりつつ一切の怠りを取り除き励み続けることが精進であると述べています。まるで呼吸のように、吸う息も吐く息も、その真理や本質の顕現であるとした理念に由るときはじめて精進となったということです。

理念があるから精進できるのであり、理念がなければ精進にはならないのです。そして何を精進するのかというのに、人が自分の我欲を乗り越えて大義に生きようとする覚悟が定まるように思います。

そう考えれば修行が辛いということはありませんが、修行にならないことが何よりも辛いことのように思います。日々にこれが修行だと思い込んでみても、それが理念に由らないのなら修行風であって真の修行にはならない。

真の修行、つまりは己に打ち克ち修める実践に於いて目下脚下のあらゆることを天地自然の道理に従い内省し、その日々の心を正しい方向に直しつつ進むということです。

人は自分の過去を捨て去ることはできませんから、今の自分を正しい方向へと向きなおすことしかできないのです。今というのは常に選択の連続ですから如何に方向を間違えないか、方向を間違わないかに日々の精進があるように思います。しかしここに救いが入っているように思います、人はどんなことも精進次第で善にも福にもしていくことができるからです。

人生は一度きりの旅路、そしてその道は曲がりくねっているものだからこそ正しい道を歩めるように精進できることに感謝しながら先人たちの足跡を辿って見習っていきたいと思います。