人は主体性が出てくると信じることができるようになります。
それは信じるという行為は、誰かにやらされているのではなく自分自身の体験で真底から納得することで醸成されていくことだからです。そしてこの納得というのは、何度も体験し味わい尽くしたあとに自分自身が「丸ごと善い」と実感することに似ています。
例えば、人生というのは無駄が一切ありません。かつての経験が今に活きていますし、今があるのはすべて過去の体験の集積によって存在しています。自分の生き方というものは、今までどのように生きてきたか、そしてかつてどのような体験があり、それを乗り越えて味わってきたかでできあがっているともいえます。
つまりは人生というのは、自分自身の主体的な体験によって彩られているとも言えるのです。時には自分自身がやりたいと思っていなかったことでも、きっとこれは何か大切な意味があるのだろうと主体的に楽しく自分から取り組んでそれを味わい学び掴んでいたことが、将来のやりたいことを支援する大切な力になっていたりするのです。
人生とは奥深く、寄り道したことも大切な寄り道であり、その寄り道があとで絶対不可欠になる能力を育ててくれたり、その道草が後になって絶対に必要なご縁を導いて下さることが多いのです。
だからこそ何でも嫌々ながらやるのではなく、自分から主体的に楽しんで行うことでそのことの本意があとになって活きてくると思うのです。今に集中して今に真剣に生きている人は幸せな人とも言えるように思います。
その人は主体的であることを実感し、主体的であるからこそ今を生き切るのです。今を生き切るからこそ誰のせいにもせず、言い訳もしない、今を満足していくことができるのです。不平不満というものは須らく、将来のことを心配したり、過去のことにくよくよしたりと今から離れるときに起きるものです。
それは体験をしていないという意味にもなります。どんな体験であれ、必ず今の体験は後で生きてくるのだから無駄にしない、勿体なく味わい尽くしていこうとするところに人生の妙味があるように思います。
主体性というものは、主人公ということで自分自身の人生を遣り切っているということです。どんな人生があったにせよ、主体としての性、つまり自分自身のことを信じるということや、相手や周囲のことを丸ごと信じる、そして人生を丸ごと信じる、世の中のことを丸ごと信じる、自分の今を丸ごと信じるということです。
信じようとしないのでは主体性は発揮されることはありません。
人生は客人としてきたのではないのですからあくまで主人として生きるということでしょう。そしてそれが丸ごと信じ切るということなのです。やらされることになっていることすべては客人のままということです、自分からやりたくてやっていてはじめて主人となしえるのです。主人であることが信であるということです。
見守るの道を弘める以上、信の実践は何よりも欠かせない大切な徳目であり訓戒の一つです。しっかりと精進していきたいと思います。