指導というものを深めてみるとき、当たり前のことが何であるかを見直す機会がありました。
そもそも指導というものは上級者に行うものでありません。指導はすべて初心者に行うものです。そんなことは誰もが知っていると思いますが実際は上級者である自分という意識があるあまりにその指導方法が応用の難しいことばかりを教えて自己満足でおわってしまうことが多いように思います。
つい自分ができることばかりを求めて自分ができてきた人は、教えることはできていてもその人ができるようにすることができないと言う人があまりにも多いのです。これはその人が教えるという考えを転換しなければ気づけないようにも思うのです。
一般的には教えないで育てるというコーチングの考え方がありますが、これが相手ができるようにするための技法のように思います。自分がどのようにしてできるようになったのか、今の自分が何でできるようになったのか、それを掘り下げていたらすべて基本というものがあることに気づきます。
この基本というものは、教えられるものではなく伝授するものです。その伝授するものは、昨日のブログで書いたような「信じること」であったり「感謝すること」であったり、その他「勇気、愛、真心、大義、夢」などキリがないですがこれら基本が心技体すべてに沁みこんでいくことではじめて入るのです。
そう考えてみると指導者は何をすることが指導者であることがわかります。単に教えてできるようになるのならそれは基本を伝授しているわけではなく応用を教えているだけになってしまうのです。基本の気づきがないのに応用ができるはずがありません、それでたまたま応用ができてもその人が本当に自らの気づきで体得したのではないのならその人はできるようになったわけではないのです。
これらの基本の鍛錬を行い、できるように見守ることが指導者の役目ではないかと私は思います。言葉にするのは簡単ですが、その人ができるように簡単になるわけではありません。その人に素晴らしい場数という出会いの連続があることを助け、真摯に丹誠を籠めて信じて育つプロセスを信じる必要があるように思います。
どれも時間がかかる事ですが、時間をかけて信じるからこそ人ははじめてできるようになると思います。人生は先人たちも今の自分も同じように努力し精進し、出会い気づくことでできるようになってそれをまた次世代へと譲るのですから自分が怠るわけにはいきません。そうやってできるようになった人が指導者になり、指導者が周囲をできるようにする。伝承と同じで、それが命の連鎖であり、命の伝道であろうとも思います。
人が真実にどうやったら気づくのか、それはいつも周囲の温かい言葉と見守りの中で感じられたように思いますから同じようにその人の尊い気づきを信じて待って祈っていたいと思います。自分がしてきたことと自分が周囲にしてくださってきたこと、その両輪が指導の基本です。
指導の道の学びを高めて、初心の技法を究め、基本を見直していきたいと思います。