今朝がたから春にそのままにしておいた小麦の脱穀を行いました。
大量に収穫したため手作業での脱穀が億劫になっていましたが、みんなで行うと楽しいものです。太古の昔から今まで私たちは協働作業をすることを通して仲よくしてきました。言い換えれば、協働作業を通して生きていく智慧を忘れないように工夫してきたともいえます。
もともと自然界の中で、一人で生きていくにはあまりにも脆弱なつくりである人間がみんなと力を合わせることで厳しい中でも生き抜いてくることができました。言い換えれば、人間の本能の中に人と一緒に暮らしていくというものが刻まれているともいえます。
まず一家を形成して、その後、大家族を形成していくというのが人間の発展です。
そのために一家が仲よく協働作業を通してあらゆることを一緒に行うために思いやりを学び、そしてその中でそれぞれの個性が活かせるという幸せを育むのです。
一家というのは、言い換えれば運命共同体であり、共に協働作業をしていくためのかけがえのない仲間であるということになります。しかし今の時代は、本来、ありえるはずのない歪んだ個人主義が蔓延し、家族という定義もまた変わってきているように思えます。
それぞれが自立ということが他人に迷惑をかけないで自分のことは自分でやるということなってしまうと協働作業するよりも単独作業で効率を優先した方がいいということになってしまいます。
しかし実際に社會の中で生きている人間にとって一人で生きていけるわけでもなく、貨幣に頼っていけるのは貨幣が使えているときだけで実際にもしも自然環境が大幅な変化や食糧難の時代に入れば本来の家族主義に人間は必ず回帰していくはずであると私は思います。今の社會システムは金融を中心にした仮想のものですから物が潤沢にあるときはいいのでしょうがそうでなくなればすぐに崩れるものだと思います。
もともと幸せというものは、そのものが自然の中で安心して暮らしていける状態をいうと思います。自分がどういう時がもっとも安心であるか、それは一家を形成し、大家族の中で自分の存在が認められ共に生きているときでしょう。
運命共同体というのは、御互いに生きていくために必要であるということです。そのために常に協働作業の楽しさ、協働作業の有難さを実感していることが本来の仲間作りであり仲良くなるためのコツだと思います。
一見、効率や効果が低いような協働作業も、心を通じ合わせる時間を一日に一度持てるというだけで家族の存在、一家の存在に支えられているという安心感や勇気をいただけるのが人間です。
だからこそお互いのためや思いやりを優先でき、安心することができるのでしょう。協働作業をたくさん行うことで一家が産まれ、村が産まれ、国が産まれ、世界が産まれたと思えば、共に暮らしていく仲間とは協働作業をする仲良したちということでしょう。
流されてつい一人で何でもできることが良いという価値観に刷り込まれそうになりますが、どんな社會を遺していくか、未来のために自分の協働観を育てていきたいと思います。