精進という言葉があります。
そもそも精進とは何をもって精進か、それは単に努力をし怠けないことをいうのではなく理念に対して真摯に実践していくことをいうように私は思います。
何のために努力するのか、その何のためというのは大変重要なことです。しかし実際はこの何のためということに立脚せずに物事の善悪を自分の都合で解釈して努力していても、それは間違ってしまうこともあるのです。
理念を持つ、理念を発するということは、この何のためにということへの根本を正すことに他なりません。
そしてこの理念があってその理念を飾るのではなく、本心から理念に沿って実践に取り組み続ける日々を送ることではじめて精進ということになるのでしょう。
道元禅師の遺言に「諸々の善法において勤修すること無間なるを精進」とあります。
これは意訳ですが天地の道理にしたがって至善に止まりつつ一切の怠りを取り除き励み続けることが精進であると述べています。まるで呼吸のように、吸う息も吐く息も、その真理や本質の顕現であるとした理念に由るときはじめて精進となったということです。
理念があるから精進できるのであり、理念がなければ精進にはならないのです。そして何を精進するのかというのに、人が自分の我欲を乗り越えて大義に生きようとする覚悟が定まるように思います。
そう考えれば修行が辛いということはありませんが、修行にならないことが何よりも辛いことのように思います。日々にこれが修行だと思い込んでみても、それが理念に由らないのなら修行風であって真の修行にはならない。
真の修行、つまりは己に打ち克ち修める実践に於いて目下脚下のあらゆることを天地自然の道理に従い内省し、その日々の心を正しい方向に直しつつ進むということです。
人は自分の過去を捨て去ることはできませんから、今の自分を正しい方向へと向きなおすことしかできないのです。今というのは常に選択の連続ですから如何に方向を間違えないか、方向を間違わないかに日々の精進があるように思います。しかしここに救いが入っているように思います、人はどんなことも精進次第で善にも福にもしていくことができるからです。
人生は一度きりの旅路、そしてその道は曲がりくねっているものだからこそ正しい道を歩めるように精進できることに感謝しながら先人たちの足跡を辿って見習っていきたいと思います。