人は大自然の中に抱かれると自然に頭を垂れて有難い気持ちに包まれるものです。それは碧く大空の澄み渡る光の景色であったり、悠久の年月をともにしてきた山野や巨樹であったり、広大に流れあふれる大海原や大滝などもそうです。
私たちは自然に有難いと思う心を自分の内在に秘めているともいえます。
これを私は「大和」と呼びます。
私たちは自然を感じるとき、そこにかんながらを直感します。自分が生きていること、そして活かされている事実、そういうものを発見しては自然への畏敬と御蔭様の恩徳が心身に沁みわたってくるのです。
人は頭でっかちになって単なる物知りになると、目的が単に知ることになり遣ることにはなりません。人間というものは体験したものを自らで気づき、自らを高めていくのが自然です。
その自然から外れると自然のことも感じられなくなり、この世にいるのに生きてはいないような存在になってしまうことがあります。そのときこそ、私たちの祖神たちがどのように感じていたか、そのルーツをたどることで今の自分の本来の姿が顕現してくるように思います。
人がなぜ先祖を大切にしなければならないか、自分がどこから来てどこに行こうとしているかを学ばなければならないのか、それは自らを自覚することが自然なことだからです。
この自然に学ぶ心というものがかんながらの大道といっても過言ではありません。
安岡正篤先生が、「大和」について語る中に下記のような文章がありますがとても味わい深い内容で深く感じ入るものがあります。
「生死が巡り、陰陽相極まりて動くが如く、大和の理は一見矛盾するが如きものが渾然と一致して初めて和するものである。・・・こういう神道の根本理念を見てきますと、自然と人となんら背反がない。いかにも大和であり、人道は神ながらの道であります。日本人が仏教の「如来」をよくとり入れたのはこの根本理念による力が大きく、神道は偉大な如来蔵であります。神ながらの“な”は、“の”の変化したもの。“から”は、“なきがら”などという形体を意味し、つまり神の具象、キリスト教でいうと神のembody,incarnationが自然であり人間であります。神は人間を超絶した別のものではなくて、神人合一である。だから日本人は本質的に包容、同化、創成力に富んでいるのです、と。日本人は無宗教といわれるが、何を信仰しているのか、日本人自体も意識しない。日本人自体が意識しないのだから当然他国に分かるわけがない、そこに何ともいえぬ偉大さがある、といえるのではないだろうか。自ずから然るは、日本人の偉大なる大和の精神の故である。」(藤尾秀昭著「人生の大則」致知出版社より抜粋)
自然観というものは頭が入る余地がありません。だから自然なのです。そして直感というものも知識で理解しているものではありません、実践し行動してその妙義とコツを得るからこそ持ち得るのです。
そしてその天の真心と一体になること、天人合一の至誠の存在そのものになることがかんながらの道にあるのです。
自然に触れて有難いと思う真心に随神があるのだから、日本人は誰しもその心の中にかんながらが息づいているのを忘れてはいけません。
最後に安岡正篤先生の言葉で締めくくります。
「かく生れて、かく在り。かく在ることは自から然るのであって、人よりすれば偶然であるが、人は学ぶことによって、偶然が偶然でないことを知る。すなわち当然であることを知る。当然であることを知るということは必然を知ることである。」
人生には一つの不自然もなく自然である。
そのご縁が実に絶妙に存在していることを当然であると自覚できてはじめて学問は成るのかもしれません。まだまだその一端が観得たばかり、驕らずに怠けずに内省を励んでかんながらの道を愉しんでいきたいと思います。