一円対話の意味

カグヤには、一円対話という実践があります。これはみんなで一つの輪になって座り、一人ひとりの話を、傾聴、共感、受容をして存在を認め見守り合う実践のことです。このことで私たちが忘れていた運命共同体の存在を思い出すことができます。

そもそも私たちは目に見えている世界、耳に聞こえている世界だけがすべてではありません。現象をみて反応しているだけの存在でもありません。それは私たちには「心」があるからです。

心とは目には見えないものを観ることができ、耳には聞こえないことを聴くことができるのです。これは誰しも実感したことがあると思いますが、人は丸ごとを受け容れ信じることができるとき、自分の存在が偉大な周囲の御蔭様によって活かされているという安心の感覚を持つと思います。

この安心というのは、不安や安心という相対にあるものではなく絶対安心といって存在そのものを感じる安心です。身の回りでは空気や水があります。私たちは空気に包まれていないと生きていけません、宇宙空間に出てしまえば宇宙服の中に空気があるから生きているのです。他にも太陽の光、地球の水、あまりにも存在が大きすぎて実感することができませんが心で感応すればそれを実感することができるはずです。

この世界というのは、一つも欠けては成り立たないという中で私たちも生きています。その一つも欠けては成り立たないのに私たちが安心して生きているというのは、当たり前に存在していることを許されている「信」の世界にいることを自覚していることに他なりません。

そしてこの信でいるとき、人はお互いの存在を認め合う相互扶助の関係に気付くのです。お互いのことを「思いやり」、見守り合うことができるのです。それを忘れてしまうのは、自分の強すぎる自我や我欲によって自分を自然の循環から切り離してしまうからです。

自然界では循環に生きていますからそんなに「自分」という意識はありません。みんなの中でつながりの中で存在していることが当たり前になっているのです。個々がバラバラに個々で自我を通せば、つながりは次第に薄れていきます。なぜつながりが薄れるのを嫌うのか、それは人間は絶対的に社會に属すからです。

この社會とは、人間に限らず私たちは宇宙全体のつながりの一つでしかない、一部であるとうことを表します。その中にいる私たちですから、それを忘れるとき仕合せを感じられなくなるのです。

人間だけがこの世に存在しているわけでもないし、自分だけが生きているわけではないのです。最近は大勢の中にいるのに特に孤独を感じて一人寂しく過ごしている人たちが増えたといわれます、都市化が悪いとはいいませんが心を亡くして忙しくしている日々にもっとも人間としての仕合せが何かを忘れるのは悲しいことです。

心を通わすことは、人間としての仕合せに気づくことです。

カグヤではそういうことを忘れないように一円対話を実践します。この実践はその忘れていた大切なことを思い出すのです。どんなに現象に流されそうでも、それでも心を入れなおすのです、常に信を容れ直すのです。

人に信が入るなら必ず人はその安心に気づきます。そしてその気づきがあるから自他の存在を許すことができるのです、その先に人類の幸福もまたあるのです。自分の信が周囲を仕合せにするのです。

人間はどの時代も何度もこれを忘れては思い出し、それを忘れないようにと出来事を発生させその信の記憶を強く厚くしているように私には感じます。また同じように歴史は繰り返していますが、またこの時代にも信じることを記憶に刻む大きな出来事との邂逅がきっとあるのでしょう。

私たちが行う世直し行は、畢竟、自分自身の中に信を容れ直すということです。日々が真剣勝負ですから信を遣わせていただきたいと思います。