かつては色々な知識を覚えては、何が正しいかという物差し(価値観)に縛られとても苦労しましたが見守るという言葉に出会ってからそれまでの考え方が転換されました。
人は正しいかどうかという判断でのみ行動すれば必ずその矛盾に耐えられずに追いつめられていくものです。また右か左かといった相対のどちらかという価値観にいたら必ず対極を生み出しては争いがつきないものです。
結局は、どう折り合いをつけるかということでありそれをバランス感覚ともいうように思います。そのバランス感覚というのは、正しいかどうかでは持てず楽しいかどうかで持つことができます。
そしてこの楽しいかどうかというのは、言い換えれば発達するかどうかということです。
人が発達するというのを簡単に言えば、やらされているときはものにならず、自分からやらせてくださいと主体性を発揮したときはじめて楽しいという境地に入るのです。
人間は誰しも主人公です。それは自分自身がこの世界を観ているからです。そして自分自身の観方によって世界をどうにでも変えていくことができるからです。外側の世界が変わらないと嘆くよりも、自分の観方を転換して世界を変えていくことができるのです。つまりは人は感じ方次第でどうにでも発展させていくことができるともいいます。
子どもたちにはその力が最初から備わっています、英字ではイマジネーションといい、漢字では想像力といい、私の言葉では「毘(び)」と呼びます。
発達するというのは、そのものが自分の内面の変化によって内省をし、物事の見え方を縦横無尽に転換する力、すべてのものを一円融合し善いことに換えていくということです。
楽しくしていくというのは、一つの生き方ですが楽しいと思えることを伸ばしていくことで人は必ず発達し目的に辿りつくように思います。こうでなければならないという正しいは不安と迷いを育ててしまいますが、こうなった方が楽しいというのであればそれは安心と信頼を育てます。
見守るという言葉の素晴らしさは、○○メソッドのように正しいことを要求してくるものではなく楽しいことを実現する言葉です。かつての他の日本語も同じく、もったいない、ありがたい、おかげさま、等々すべては「楽しい」ことを実感する言葉です。
その方向性の方が好きになれる、その方向性の方が間違っていない、そういうものを社會に広げていくことが子どもたちに仕合せな未来を譲っていくことのように私は思うのです。
私たちの行う志事は、その一点と一転に集約されています。それが職場を清明るくし、そこで暮らす人たちを正直にし、子どもたちの好奇心を助けることができます。
カグヤの目指す理想は、楽しいを広げていくことです。思ったことが言える社會、やりたことを見守ってくれる社會、信じ合う社會を新たなチャレンジにより醸成していきたいと思います。