先日から実践と考えるということを深めていると、その意味がまったく異なっていることが整理できてきました。それを少し書いてみます。
実践といえば、森信三先生に下記の言葉が残っています。
「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ。」
ここの「考えたらもうだめなんだ」という言葉に共感するものがあります。
人は考えてしまっているときは、実践しようとしていない時です。なぜなら、考えるというのは頭で考えていることであり、心まで到達する前にそれを止めてしまうことだからです。
属にマニュアルを用いて人を管理するような手法もありますが、このマニュアルというものは考える人たちには有効です。しかし本来の物事は、心で感じるところで動かすものです。それを決心ともいい、それを初心を忘れていないとも言います。
そして組織には理念というものがありますが、これは何のために集まって長期的に何を目指して何処に到達するのかといった方向性を示すものです。自分が今、何処にいるのかがわからなくならないように、また迷子になって一緒にいる皆に迷惑をかけないように常に初心を確認して方向性を感じながらはじめて通る道を歩んでいくのです。
人間は感じたままに実践しているときと、いちいち考えてからやっているのとでは実践と考えるという違いがあります。前者は心で決めた覚悟のままに実践を積み上げているのであり、後者は頭で考えて実践風に形式だけをなぞっているということになります。
考えるというのは、信が不足しているともいうように思います。信じさせてもらえるからやるというのは自分の信を自らが使おうとはせずに誰かによって指示命令されて動かされるから信じるという行為で責任も発生せずに楽なのです。
しかしもしも自分が信じるのならば、考える必要はなく信じたままに行動すればいいのです。この時、はじめて責任を実感することができ自分の役割に誇りが持てるようになります。
畢竟、人はやらされるときは無責任で自分でやっているときだけ責任を果たしているということです。自分から信じる人になるには、考えさせてもあまり効果がなく、それよりも感じてもらった方が効果があります。
自ら気付くことができる人になるということです。
自ら気付くには、自分から考えるのをやめてもらわなければなりません。考えるばかりで実践しないのは、自分から信じて動いていこうという行動が少ないからです。行動が少ないと実践もまた積み上がりませんから信も積んでいくことができません。
初心を感じたままに行動するということは、理念を確認しながら実践するということと同義です。何のためにの初心の確認は、自らが羅針盤で方向性確認することと同義です。
考える前にやってみろ、まずやってみろという言葉の中には、信じなさいという応援が入っているのです。信じているから人は信によって信用されはじめてご縁は有難く結ばれていきます。信じるということはとても偉大な行為ですから、考えてもそこには達しないのです。
私がマニュアルを嫌い、文化にこだわるのも、考えるのを嫌い、実践にこだわるのも、真実や本質がいつも現実にあるからです。現実の中に生きている自分たちだからこそ現実逃避しないようにしていきたいと思います。それが人生二度ないという意味につながるのでしょう。
心気を引き締めて、粛々と実践をしていこうと思います。