誇り高き日々~初心動機~

人が物事をするのには必ず動機というものがあります。動機とは、何のためにそれを行うのか、なぜそれを行いたのかの理由です。その理由を初心ともいい、それを理念とも言います。

よくなぜこの人はこんなことで怒っているのだろうと不思議がることがあります。別に客観的に観察していても特段怒るようなことではないことを、目の色を変えて怒るようなとき、それはその人には譲れない大切な信念が其処に存在していたりする場合があるのです。

例えば、大義というものがあります。大義とは、その人の中で生きていく上で何よりも大切にしたい生き方であって、人としての道義、筋道ともいいます。道を歩く人は誰しもこの筋道を通すものが一本ありますからそこに触れ失礼なことをすると烈火の如く叱られることもあります。道とは生きていく上で、由って立つところですからその道から外れることを何よりも畏れるのです。

大義に生きる人には、義憤というものがあります。これは道義に外れた不公平なことへの憤りとありますが、つまりは本質として何のためにやっているかということを忘れるときに出てくる憤りです。

人は何のために働いてるかといえば、それは個々人の理由があります。しかし組織にはその個々人を超えるほどの大きな理由があります。個人を超えて設定したその理由と実際に仕事をしていることとの間に隔たりがあまりもあればそこに不公平が生じます。

例えば、ある仕事をする際に、なぜこれをするのかを自覚している人は自ずから深淵に出会いますから粘り強く根気強く物事に正対し簡単にはあきらめません。自分の存在価値や存在意義の大きさを自覚すればするほどに、自分の一挙一動が如何に多くの人たちに影響を与えているかを知るからです。

しかしそういうものを自覚せずに、眼前の仕事を単なる業務のように認識しているだけではなぜこれをやっているかもわからず、自分の価値基準で自分の判断のレベルで物事を処理してしまうのです。それでは逆に与えている影響も小さくなり、自分の存在意義や価値もまた小さくおさまってしまうのです。

本来、人生に対峙するとき人には誇りというものがあります。

それは自分の生き方において自分が納得した尊厳と名誉、いわば気高い精神であり自己実現を尊重しようとする魂の疼きです。自分の存在が、自分の生き方が、誇りです。どんな仕事をしているかではなく、何のためにやっているのかが誇りです。

その誇りを穢されないように、真摯に努力精進し、心を澄ませて事に挑むことでまたその人生は誇り高いものになるのです。一人一人の成長を願うリーダーならば、その誇りを穢されることをとことん嫌がるものです。それが義憤として顕現していてもなんらおかしいことはありません。

これは職人の世界でも同じく、道を志す人たちの強い憤りは其処が起点になっていることが多いように思います。

自分の働く本当の意味をどこまで自分が理解し納得しているか、自分の志を育てることをどれだけ怠らずに実行しているか、実践していることではじめて誇りもまた育ちますから初心を忘れないことが何よりも大切だということです。

初心とは忘れないという意味です。

何を忘れていないか、今一度自分に確認していくことで誇りと自信を高めていってほしいと思います。本気で生きる人の周りには、本気で生きようとする人たちが集まってきます、尊厳と名誉の周りには、同じような誇り高き人たちが集まります。

自分一人の存在の大きさを知るのもまた理念ありきです。

今日も理念のお手伝いをしますが、自分自身の日頃の実践を何よりも確かめて一緒に誇り高き一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。