自然の中の技術の一つに発酵というものがあります。この発酵というものは先祖が自然の中から取り出した技術の一つですが、まさに自然の仕組みを取り出した叡智そのものです。
発酵というのは、発酵と腐敗という言い方をしますが発酵だけが発酵だけではなく腐敗もまた発酵の一つです。どちらも微生物のハタラキですが、真の発酵はそれが全体のお役に立つようになるときに行われているものです。
私の会社でも善いか悪いかとかなく、丸ごとで善い、それを至善と言ってすべてが一円に融合して全体のためにお役に立てることを尊ぶ一円観という生き方があります。それをファシリテーターと呼んでいますが、これも真の発酵と同じです。
人が発酵するとき、それは自然に沿った生き方をしているときです。自然は変化をし続けていますから、謙虚である素直な人は常に自分を自然に沿って「自分がお役をさせていただける有難さ」を噛みしめながら日々に精進していきます。まるで微生物が次々に自分のお役目を全うして醸し出していくように自我欲などを入れずまわりのためにいのちを活かしていきます。
どこか不自然な人は心と体のバランスを崩しています。自分がしていることに文句を言い、自他を責めては日々を味わうことをせずに流されていきます。そうなると変化することを嫌うようになり停滞し、醸していくことができなくなります。
醸し出す人というのは、その人が発酵する生き方をしているときです。これを自然酒の酒蔵で有名な寺田啓佐さんはこう言います。
『発酵している人っていうのは、みんな楽しそうで、素敵なんですね。私が「発酵しているなあ」と思う人の中に、宮沢賢治という、有名な岩手県花巻出身の作家がいます。みなさんもご存知のとおり、「雨ニモ負ケズ」には、「決して怒らず、いつも静かに笑っている。そしてあらゆることに自分を勘定に入れない」という言葉がありますね。つまり「おれが、おれが」じゃないんですね。自分は後回しで、人が先なんです。「苦労したことのない人は、自分を先にしたがる」と自分の師匠もいっていましたけれども、本当にそうだと思います。』(新日本文芸協会)
とあります。
今のような競争社会では、我先に自分のことをまず守るということをして勝ち組とか勝ち残ったとかをさも価値があるかのように勘違いしてしまうのかもしれません。自分のことを考えるよりも、相手のことを思いやったり、自分や相手を責めるよりも、周りのために真心を盡そうとしたりということもまた少なくなってきたのかもしれません。
しかし実際、お役に立てる仕合せというのは、自分が謙虚に素直である時にだけ実感できるものではないでしょうか。そしてそれが「真の発酵」のハタラキであると私は思うのです。
寺田啓佐さんは「うれしき」「たのしき」「ありがたき」を発酵の『神酒ひびき』と呼んで大切にしています。発酵していくと変わっていく、変わっていくと自然に沿った生き方になり以上の3つに近づいていくと仰います。
つまり自分が真に発酵しているかどうかの確認というのは、自分の生き方がどうなっているかということです。自分の生き方がいつも周りに「うれしい」「たのしい」「ありがたい」という意識を与えているか、もしくは「つらい」「くるしい」「めんどくさい」という意識を与えているか、それは自分がどのような日々の自分の生き方を通して発酵場を醸しているかに由るのです。
大事なのは善くしていこうとする「明るく前進」していこうとする気持ち、お役に立とうとする「清々しく前転」していこうとする気持ち、言い換えればどんなことにもヘコタレズに歩んでいける力こそ醸し出す人ということになります。だから腐敗したからと腐っていてはだめで、それをも善いことにしようとすることで真の発酵がハタラクのです。
最後に寺田啓佐さんはこう締めくくります。
「これは宇宙の法則の反映だと思っているんですね。健康のもとであり、幸せになるコツであり、運命をプラスに持っていく、つまりツキをもたらす、そういう秘訣が隠されているものなんです。こんな風に、正しいことよりも、楽しいことをして、自分の信じた大好きな道を歩んでいくのが、発酵に向かう生き方なんです」
どんなことがあってもすべて善いことにしていく力、自然の道。私のいう「かんながらの道」も同じく、禍転じて福となし好循環を創りだしていくという生き方です。発酵も腐敗も全部善いことにしてしまう力こそ元気で明るく楽しく幸せな人としてのいのちの持つ本来の力ということでしょう。
自然に適うと人は生き方が自然になっていきます。余計なことをせず邪魔をしなくなれば融通無碍の愉しい世界が待っているのでしょう。日々に転じて醸して道を歩んでいきたいと思います。