先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。
そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。
例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。
またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。
ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。
禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。
今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。
人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。
真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。
何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。
禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。