体調~自然治癒力~

人間には免疫機能というものがあります。それは自然治癒力のことで、病気になれば自ずから本に直そうという力があるということです。産まれた時から、どこが健康であるかを本能が悟っています。その本能に従って様々な調和を促し常に混沌とした体調の中から日々の健康を維持しているということです。

この産まれつき持っているというものが健康であり自然であると思うのです。その健康は生まれつきの体質ということですが他人と比べて強い弱いはありますがそれがその人本来の健康の姿ともいえます。

そして後天的に健康を維持するというのは、周りの環境に対して自らが努力精進して調和をとっていくもののように思います。それは例えば、今の時代のように人工物や薬品ばかりが横行するようになれば自ずからが体には自然ではないものを摂取しますからそれによって免疫が順応しようとしますから本来の健康が惑い迷い基本が狂ってしまうかもしれません。そうならないように自分の本来の健康を維持するための努力精進を怠らないのが自然治癒を維持するということになるからです。

本来、自然治癒というのは調和のハタラキです。それは自然界の天敵の仕組みと全く同じです。増えすぎたものを如何に調和して、一定の量に保つかというのが全生命のバランス維持の方法です。

私たちの体は自然の一部ですから自然と同じメカニズムを持ちます。その天敵による駆除のハタラキこそが病気を撃退する仕組みなのです。科学でいえば自然免疫と獲得免疫という言い方をしますが、これは自然界では本来の自分の体を強くする抵抗力と他の生物の力を借りて抵抗する抵抗力です。自力と他力とも言ってもいいかもしれません。自力の治癒を出し切った後に他力の治癒が出てくるという具合です。

これも自然の法理の一つですから病気というものは全てこの仕組みで健康に直すということでしょう。自然に沿って自然に従い体もありますから、その体を助けてあげるのは自然に合わせていくということでしょう。

免疫を如何に高めていくのか、それは日々の健康の実践によるものです。健康的な生き方とは何か、それは自然に合わせる生き方です。体調のことを改めて学び直していきたいと思います。

真の志士

先日、千葉の館山でクラムアートをする福田康孝さんの指導のもと貝磨きを体験することができました。貝に文字を刻み、その貝を紙やすりで磨きピカピカにするのです。どれもはじめての経験で、とても新鮮で磨くことの仕合せを実感することができました。

この方は、17年間貝磨きのお仕事をされ1万人以上の子どもたちと一緒に貝磨きをされたそうです。貝と出会う素晴らしさを人々に伝えたいという願いと実践が実を結び、私も御蔭様で貝と出会うことができました。

人のご縁というものは、観えている人には観えていて心ひとつの感じ方によってその縁を活かすことができるように思えます。ご縁を活かすというのは、ご縁の感じ方ですからどれくらい自分の生き方が一期一会になっているかということが大切だということなのでしょう。

今回の体験から貝ということと磨くということを一円融合し、「磨くことで貝が光る、そして一緒に輝き続ける」という哲学のようなものを感じました。道中、朋友と歩む中でともに磨き合い光り続ける仲間が世界には沢山いるという実感、それだけで如何に仕合せなことかを感じるのです。

「真の志士とは自分の代のみの夢に生きるのではなく千年の夢に生きる」(藍杜静海)

自代では伝わらないほどの偉大な夢は、その代の人たちには簡単に分からなくっても、必ず何百年か後にその志を継承しそれを高めて遺していく人がいるものです。

歴史はもっとも私たちを磨く砥石です。その歴史が証明する磨き方をするのが真の志士だと実感しました。色々な方々との出会いに恵まれ、私自身も沢山の勇気をいただけます。

最後にこの方の出会いのキッカケになった貝の声をご紹介したいと思います。

『貝の声物語

ワタシはヒトリ、ポツンと海に産まれました。

命(あるじ)を守り通すことに一生のすべてを捧げてきました。

ある日、あるじはソラの海へ還っていきました。

ワタシは長い長い間、ヒトリ海の底を旅したあと

幸運にも浜辺にたどり着くことができました。

もし、アナタが新しいいのちになってくださるのなら、

ワタシのすべてをアナタに一途に。』

ご縁は海の広がりと深さの中で広がり沈みまた循環をはじめるようです。

ありがとうございました。

 

海の王~海人一体~

昨日、久しぶりにある方からフリーダイバーのジャックマイヨールのお話をお聴きしました。以前、映画グランブルーやガイアシンフォニーで拝見したことがありましたがご縁あった方からの直接のお話ははじめてでした。

私がジャックマイヨールの好きな言葉に下記があります。

「自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる」

これは人為的な知識よりも、自然界の智慧にゆだねた方がより偉大な力をお借りすることができるという意味ではないかと私は思います。西洋からの人為的な知恵は、原子力を創ったり、大量破壊兵器を創ったりします、しかし自然の持つ地震や噴火、雷や台風などの力に敵うことはありません。

水一つですら創れませんし、小さないのち一つも創れない人間が、自然と離れれば可能が次第に狭まっていくばかりなのです。大いなる自然に心身を預けていく中で得られる智慧こそ本物の智慧のように思います。いつしか自然への尊敬や畏敬、崇拝を怠り始めたところから人間は謙虚さを忘れ傲慢になってしまったのでしょう。

また具体的に、ジャックマイヨールは未来の人類は水陸両棲人間になれるという信念を持っていました。「イルカになりたい」それが彼の夢であり、彼の哲学であったといいます。そしてこんな言葉を遺しています。

「イルカは高度な“知性”を持ちながら、自然と完全に調和して生きている。その生き方から学ぶことに依って私達も、自然と調和する道を知ることができる。」

イルカと心が通じ合ったジャックマイヨールのイルカから学んだ生き方の要諦が言葉に詰まっているように思います。私に言わせれば、人間の方が自然に近づくのならば必ずあらゆる自然と調和し対話していくことができるということです。

自分たちの方が万物の霊長であるという傲慢な意識や、自分たちの知識が優れているという勘違いをそろそろ見直し、46億年もパートナーであった地球との和合する生き方に転換していく必要を感じています。

最後にこの言葉で締めくくります。

「ただサイズが大きいだけではない。存在として、知性として、大きい。生物の器官には無駄はない。ある器官が発達しているにはそれなりの理由がある。そして、クジラはとても大きな脳をしている。」

「では、クジラはあの大きな脳で何を考えているのか?物質的なことは何ひとつ考えなくていい。とすれば、あとは哲学的な瞑想しかないじゃないか」(クジラが見る夢 池田夏樹著 新潮社)

私たちが及びもしないクジラなどの海の王、そして巨樹などの木の王、あらゆるものを畏敬してこそ宇宙の心を感じられるのかもしれません。今一度、温故知新の真実をこの人生で成し遂げてみたいと決意しました。

ありがとうございます。

循環している実感

私たちは体験をすることで様々なことが細分化されていくものです。それはパソコンに溜まってくるメールのように次々に増えていくものです。そうやって増えて細分化したものが「分かれて」しまうともともとはじめに一つだったものが分からなくなっていくものです。

本来、二つ以上のものを合わせるというのは原点に回帰するということです。それは右か左か、善か悪か、あるかないかといった物質的な観点と観念で物事を判断するのではなく、思想のように「丸ごと」合わせて分けないところで理解するのに似ています。

そしてこの二つ以上のものを一円融合させようという意識があってはじめて平和が続くことのように思います。循環というものも、偏らないということであり、それは流れ続けていく中で一つのものにしていくから循ることができるのです。まるで川が大河になり海になり雲になり雨になりそしてまた川になるように、本来あったものは流されていく中で原点回帰していくのです。

しかしその流れを止めてしまうようなことをしてしまえばどうなるか、それは分かれたものを無理に処理しなければなりません。自然から離れれば離れるほどに分かれてしまいますからその分かれたものをまた分けて分解するとさらに悪循環を創出してしまいます。

例えば水の処理場のように、土や生き物たちの浄化力を活用せずコンクリートで固めた水道を用い、今のように洗剤や油を多用するものを流せば当然浄化が追い付きません。それを何重のフィルターや薬品で乗り切ってもその無理をした分のゴミが出てしまいます。そのゴミをまた分解するために別の処理場へと運ばれ・・・などと際限なく無理が続きます。

本来、一つに合わせるということはとても楽しいことです。朝晩が一日であるように、天と地が和合するように、音が歌を奏でるように一つになることをすべての生き物たちは喜び、いのちは仕合せを感じるのです。そしてそれが循環している実感なのです。

私たちは祖神から八百万の神々が平和を築いてきた民族の歴史を持っています。たくさんの神々が和して大和を体現してきました。それは分かれていても一つであるという考え方、英語ではワンネス、漢字では渾然一体というのかもしれません。

そういうものを如何に産出して発展発達を促していくか、そこに私たちの使命があるようにも思います。悠久の平和を祈り願う先祖たちが遺してくれた意志を受け継ぎ、正しいことよりも楽しいことを広めていきたいと思います。

自信と勇気

人はみんな誰しも自信を持ちたいと思うものです。自信が出るとは何か、その自信について深めてみたいと思います。

そもそも「自信が出る」とは何が出ているかといえば「勇気を出している」ということです。具体的には、やったことがないことに挑戦したり、失敗するかもしれないという思いが横切ってもそれでもやってみようと取り組んでみることです。未知なるものへのチャレンジのことです。

やったことがないことをやるのだから当然想像ができませんから誰だって不安なものです。そこで自信がないと一歩を踏み出せず、結局は自信が着くことがありません。人は知識が増えれば増えるほどに知っていることに安心してしまうものです。知識は自分が安心したいから持つともいえます。昔なら台風も雷も日食もなぜ起きるのかわかりませんでしたから不安だったことでしょう、今では知識が増えてある程度のことが予測できるようになっています。しかしその分、知らないことへの怖さというのは増えているように思います。

またよく勘違いされるのに自信というのは人から与えられて身につくものだとか、成功によって得られるとか思われていますがそれは単なる副産物であろうと思います。本来の自信は、勇気そのもののことですから勇気がある人が自信があるのです。

みんな人は誰もが勇気を持っていますが、それがなかなか出せないことがほとんとです。その勇気を絞り出してでも行動に変えていけば、自ずからその小さな勇気が集積して確固とした勇気、つまりは自信につながってくるように思います。

前例がないこと、やったことがないこと、見たことがないことは、想定外ばかりです。その想定外を好奇心で愉しみたいと思ったり、人生を味わいたいと願っていたら自ずから勇気が湧いてきます。そして人に自信を与える存在になっていけば、勇気を与える存在になっていきます。つまり自分の生き方が勇気を与えているのならそれは多くの人たちの自信になるということです。

以前、カムイロケットの植松努さんとお話したときに「自信がない人が、他人の自信を奪う」ということをお聴きしました。つまりは、勇気がない人が他人の勇気を奪うということなのです。もしもみんなが勇気を奪い合っていたらどうなるか、それは大変不幸な社會になるのです。本来の正義や、思いやりは勇気によって広がるものですからその逆の社會というのは本当に貧しく情けないものになってしまうのです。

自信を持ちたいと願うのならば勇気を出して人に勇気を与える生き方を選んでいくと善いように思います。そして勇気を絞り出したのなら、必ず自信はあとから着いてくると信じることのように思います。

そしてそれはほんのちょっとの勇気、ないものを絞り出してでも出そうとする勇気、心の信じたままに行動する勇気です。変えていくのも変わっていくのも未知の世界ですから、自分が社會に活かせることに感謝しつつ新しいことができる仕合せを愉しみ毎回小さな勇気を絞り出し、前進していきたいと思います。

人間~素直と成長~

人間は誰でも自分のことを分かってほしいと思っているものです。人が一人以上で生活する場にいるのは、自分を確かめたいからかもしれません。自分というものを認識するには、他の誰かがいなければならないからです。

不思議なことですが自分のことばかり考える人が増えている中で、本来は社會や周囲の人たちに依存して存在しているのだからもっと他人とか自分とか分けずに周囲へ関心や思いやりを持たなければ本当の自分のことなどわかるはずはないのです。

自分を知りたいのならば、もっと自分の保身を思い悩むよりは周りの人たちのことをもっと思いやった方がその中で本当の自分に出会うように思います。

その自分と他人ですが、分かってほしいと思うばかり人は相手に多くを求めるようになります。求める人というのはいつもイライラしているからすぐにわかります。相手が自分の思った通りにならなかったり、自分はここまでしているのに相手はわかってくれないとか、求め過ぎることで人間関係は不仲になっていくのです。

不仲というのは、本来、与えてくださっていることに感謝しているのではなく不足や不満不平を並べてはなぜ求めているのに伝わらないのかと文句が出ているのです。素直になれば相手にも伝わりますが素直にならないで斜に構えているからその分が伝わらなくなりかえってまた求め過ぎるという悪循環になっていきます。

よく考えてみたら、十分過ぎるほどにいただいているものが多い世の中です。誰かと比較さえしなければ、自分はあらゆるものを与えられていると実感するものです。それは心の力であったり、愛であったり、目には見えないけれど本当に沢山のものを感じる力があります。

その感じる力でもっとご縁を味わい尽くしていけば自ずからいただいている自分とのめぐりあわせや機会、この今のご縁の本当の素晴らしさに深く感謝できるようになると私は思うのです。

そういったものを如何にたくさん育てていくかが、素直になるということなのでしょう。素直になっていけば、自ずから感謝している自分でいたいと思うものです。自然体の思いやりある子どものようにいれるものです。自分の心を見つめていくというのは、素直になることであり成長するということです。

成長とは素直さです。

人生の中で如何に素直であり続けられるかが、成長し続けられるかということですから自然に学ぶ心をもって思いやりや真心を通じ合わせていけるように対話を大切にわかり合っていきたいと思います。

人間でいるということの仕合せを噛みしめつつ、歩んでいきたいと思います。

~新しい産業~心の原点回帰

経済活動の分類に、第一次産業、第二次産業、第三次産業というものがあります。

第一次産業とは、自然を用いてそれを産業にしたものです。たとえば、農業、林業、水産業などです。そして第二次産業とは人が加工したもの、機械でつくりあげた人工物を中心にした産業です。 これは鉱業、建設業、製造業などを言います。そして第三次産業とは第一次にも第二次でもない産業でサービス業などを指します。具体的には、商業、運輸通信業、サービス業などです。

これは今ある枠組みの中の産業の構図ですが実際はここに当てはまらない産業というものがあるはずです。将来的にその産業が盛んになるなら第4次産業や第5次産業など、発展してくるように思います。

産業の構図というものは、枠組みですからそこのどこにも当てはまらない産業をどのように理解していけばいいかということがあると思います。

例えば私たちの会社は何のジャンルになるのかとよく聴かれますがこのどこにも当てはまらないところでお仕事をさせていています。自然物に沿い、形になるものを用い、形のない意識を扱い、真理に従い人々を応援するという具合です。

こうなってくると、自分たちで新しい枠組みを用意しなければ外部へやっていることが伝わらないのです。

次代の変わり目や価値観が多様化した現代においては、枠組みというのが自由な生成発展の邪魔になるように思います。ありとあらゆることが、細分化されたものが一巡目を終了し、2巡目に入るということは、分かれていたものをもう一度ここで融合し直すことに似ています。

それは創造と破壊、秩序と混沌ではないですが、「原点回帰」するということです。

私の予測では、この先の産業とは原点回帰産業ではないかと思います。経済の立て直しといっても、心があっての経済ですからもう一度ここで心の原点回帰が必要ではないかと実感するのです。

企業が心の原点回帰をしていく中で、真理に目覚め真理を応援するならば必ず社會は経済は好循環をはじめます。その好循環を産み出す企業こそがこれからの新たな産業を切り開いていくと私は確信するのです。

私たちが目指す理想も、日々の実践も、それは世の中に好循環を産み出したいからです。本来の自分たちの生き方そのものが働き方になるのは、そこに確かな真理を応援して子どもたちの周りにいる人たちに勇気を与えるような存在になりたいからです。

子ども心にかっこいい生き方をしたいと念じていましたが、その舞台やステージが今、此処です。巡ってきた機会を有難く受け止めて、既存の枠組みにとらわれずに常に時代の本質を貫いていきたいと思います。

意識レベル~理想と現実~

人間には「意識」というものがあります。その人の意識のレベルが問題意識ということはかつてブログで書きましたがそれを改めて整理してみます。

そもそも世の中ではレベルというのは何を指しているかというのがあります。心のレベルとか魂のレベルとか、レベルというのは段階のことでどの辺のところまで自分がるかという物差しということです。

そしてこのレベルを上げるというのは、簡単にいえば自分の中にある最低の最高を目指すのか、それとも理想の中にある最高の最幸を目指すのかという大きく2つの次元にわかれるように私は思うのです。

よくレベルを上げなければと言っている人がいますが、実際は自分の方の中での都合のよいレベルを設定して、あれよりはマシといった比較を使って最低を高めていこうとする方ばかりが世の中では用いられているように思います。自分の癖を直すことや自己改革する際に取り組みやすい方から選ぶときほとんどが自分を中心に決定しています。

しかし本来、下から上げてくるのではなくとても高いところから降ろしてくるという発想が別にあるのです。それが私の思う問題意識を高めるという意味になります。問題意識が高いというのは、理想の高さから自分のところに降ろしてくるような感覚です。それを世間では夢を追うとか、夢を見るとかいった言い方をしますが高い理想に向かって取り組むときはじめてレベルが上がると言えるのです。

魂レベルや心のレベルなどもそうですが、同じ次元で取り組むのならばまず自分の中のちょっと高いところに照準を合わせるのではなく、理想そのものに自分を合わせるという理念と勇気と行動が必要になるのです。

理想と現実という言葉がありますが、理想に合わせながら現実を変えていく人と、現実にあわせながら理想を変えていく人がいますが、やはり問題意識というものは理想から変えていくことで現実が理想に高まるということになっていくように思います。

問題を自分の都合ですり替えないよう、常に「本質」に合わせて理想を捉えて現実を実践していきたいと思います。

清潔の定義

今の時代は人間の世界にいるのと、自然の世界にいるのとでは様々な常識が異なります。例えば、泥浴びというものがあります。これは動物たちが寄生虫や体についた汚れを取り除くために泥を浴びて洗います。ここでは泥を浴びるということそのものが人間で言うところのお風呂に入って洗っているということなるのです。砂浴びなども同じですが、かえって綺麗に洗うと体毛が油で固まったり色々な寄生虫が近寄ってきやすくなることもありそれを防ぐために泥や砂を浴びるのです。その方が清潔に保つことができるのです。

この清潔という考え方は、今の人間ではまったく違った意味で使われます。今ではなんでも除菌し殺菌し、完全に微生物を滅菌してしまおうとします。手洗い用の洗剤から服用する抗生物質などもそうですが菌をすべて取り除こうとします。

清潔にしすぎることで、他の病気が増えてもいます。皮膚などは常在菌といった本来の皮膚についている菌を取り除くことで肌荒れをおこし、そこに黄色ブドウ球菌という外部の菌が付着し炎症を起こしたりします。洗えば洗うほどに悪玉菌が増えるという現象が起きています。

無菌=清潔という考え方はとても危険で、本来体に付着している善玉菌まで丸ごと取り除いてしまってそれを清潔というのはちょっと感覚が狂ってしまっていると思うのです。動物であれば絶対にしないようなことを今の人間はしますが、ほとんどすべての体が微生物によって活かされているのにそれを排除しようとするのが清潔なわけないのです。

先ほどの泥が汚いというのも砂が汚れているというのも固定概念がそうさせるのです。本来の泥も砂も発酵しているものは清潔なのですから発酵しているものまで汚いというのはどういうことかと思います。

以前、入社したあるクルーが漬物やパンの酵母を汚いといって触ろうともしませんでした。それに野生に生えているものは気持ち悪いから食べないといい、スーパーで売っているものしか信じられないとも言っていました、また手作りのものはちょっと嫌だとも言いました。これなど完全に固定概念で何らからの知識を刷り込まれ思い込んでしまっているのです。

何が本来の自然であったのか、今の不自然な生活が当たり前になっているからもはや自然というのは菌がいない世界であるとさえ思い込んでいるのかもしれません。

そんなことを言うと、世界にはさまざまな病原菌がいます。それは体内にもいます、免疫とは体内で微生物のハタラキにより左右されていますから自分の中でいつも発酵をしては体調を維持しているのです。それを汚いといって薬などで殺菌したり洗剤で洗いすぎたりするのは本末転倒だと思います。

泥が本当に汚れているのか、砂が本当に汚いのか、そこから見直す必要があると思います。知識によって得た泥や砂の一部しか理解していないのに、悪い菌が住んでいるからと決めつけては自分にとって都合が悪いものを不潔とし、自分にとって都合が良いものを清潔というのはあまりにも視野狭窄だと思います。

人間の持っている知識しか信じないという発想が固定概念ですが、知識を超えた「ハタラキ」があることを理解せず、人間に都合が悪いものは全部を取り除こうとする発想が根本の問題にあるように私は思います。

清潔と不潔の定義も、自然に照らして観直していく必要があるのでしょう。自分の固定概念を壊すには、もっと自然に触れていくことだと思います。薬漬けされて化学肥料をたっぷりかけている土が果たして清浄なのか、薬品漬けされて栄養剤ばかりを摂取する身体が果たして清浄なのか、どんな環境が本当の清浄で、どんな食べ物を食べ生活することが清浄か、実践していきたいと思います。

 

 

 

好循環の生き方

農作物を育てていると循環している世界の中に身を置くことができます。木と土、光と水、風と生き物、それらが関わり合いとても密接につながっています。循環とはあまりにも当たり前すぎて観えなくなっていますが、万物のいのちはめぐっているからお互いが必要としあい存在しあうのです。

万物が存在する理由も循環があるからです。地球が丸いのも、宇宙の銀河が渦巻なのもすべてはめぐるからです。めぐるために私たちも必要ということです。だから循環というのは邪魔をすることはあっても無駄というものは一切ありません。循環を邪魔する人間があるだけで、循環が無駄というものはないという意味です。

これはたとえば森で観ればすぐにわかるでしょうが、森は木が光と風と水を使って成長し、その成長した木から根が広がり葉が落ちることで足元の微生物たちを育て、その微生物たちの働きによって善い土が醸成され、その土によってまた木が育つというように、一切の無駄がないところにあるのが循環の定義です。

その循環を極力邪魔しないように手助けをして、その分だけいただくのが本来の自然の農の姿です。しかしそれを邪魔するというのは、人間が作物をすべて取り尽くしその循環を邪魔するからその分、肥料をたくさんやらなければならないし、それに虫の食べ食べられる関係が崩れるからその分農薬をたくさん使わなければらないとなるのです。結局、周りの生き物たちと生きようという思いやりのある心ではなく、自分さえよければいいという考え方が悪循環を引き起こすのです。

そうやって如何に循環を邪魔することが、結局は費用と労力をたくさん使っているのかを考えないといけません。長い目でみればとても大損をしているのに、目先(自分のこと)だけを皆が意識するから誰もそれを間違っているとは言わなくなりました。

昔の人たちは自然を観る力、自然に活かされる謙虚な心をもっていたから循環が素直に観えていたのでしょう。だからこそ祖神たちの智慧が自然の技術に裏付けされているのです。彼らが使う技術とはすべて循環技術(自然の智慧)だからです。

そして野菜づくりに限らず、余計な仕事を増やして費用と労力ばかりをかける人は自分が循環を邪魔しているのに文句ばかり言う人になっていきます。矢印を他人にばかり向けては不平不満を並べます。本来の自然な流れを自分から壊しておいて大変になっているくせに、それを誰かや何かのせいにします。

人間の育成も本来は循環があったのですがその循環を邪魔することで無駄という考え方を人間の中にも入ってきました。それは人間でいえば教育なども余計なことを教えれば教えるほどに都合よく育てられますがそれが後で大変な費用と労力をうんでしまうことに似ています。

如何にその人らしく社會の中で循環するのを邪魔しないか、そういう生き方をするのも本来の人間の循環の役割を果たすことです。その人がその人らしくあるがままでいられるようにするには、ちゃんとその人が循環するように信じて見守る社會があるということです。誰かの仕合せを奪ってまで幸せになろうという考え方がそのものが悪循環の社會を創造してしまうのでしょう。

長くなってしまいましたが、本来の循環は私たちが人為的に行うのではなく自然のいのちのめぐりの姿です。その自然のいのちのめぐりを邪魔しないように人間の知恵を使い手伝うことで好循環が生まれます。好循環が生まれればそこに発展と繁栄があり、万物のいのちを活かす偉大な力を享受することができます。

人間がいくら頑張っても、太陽をつくれませんし、空気も水もつくれません。なんとなく科学で作ったとか言っていても、それは少しそれっぽくしたものを自然の力を借りて道具にしただけです。そのものの本体など大きな循環が生み出したものですから人間がどうにもすることはできません。原子力などもそうですが太陽に敵わないものを似せてつくったって結局はその人為こそが無駄の証明になるのです。

如何に循環を邪魔しないか、そこに自然の叡智をお借りする人間の謙虚な生き方があります。大いなるお互い様の世界に生きることこそ好循環の生き方です。まだまだこの世界を自然から学び直していきたいと思います。