損得勘定

物事のとらえ方というのはそれぞれですが、お金を優先した物質経済の価値観が強すぎるとある一定の感情と判断が世間に蔓延してくるように思います。簡単に言えばそれは損得勘定というものです。それは利害を一つ指標として自分にとって損か得かのモノサシでばかり物事を考えるということです。

自分が損をしたくないからと、自分が得をする方へと判断することで損か得かを常に自分を中心にして考えていることほど本当の損なことはありません。自我が強くなりすぎる理由も世の中に損得という物差しがあまりにも目に入ってくるからかもしれません。

沢山のお店が並んでいる前を通ると、如何に安いか得をするかということばかりが宣伝されます。他にも広告なども見ようとしなくても目に入ってきます。情報量が多く比較するものもたくさんありますから、損したとか得したとか利用した後までそれを話し合う始末です。

確かに損得もありますが、同じ呼び名でもそこに「尊徳」という捉え方がありません。徳という考え方は、損か得かではなく善いことが循環するかどうかということです。自分の存在が周りを善きものへと循環するような体験をしているか、思いやりや有難い感謝に換えているかというものです。

物事は決して損得勘定だけでは裁けず、メリットデメリットだけではない中庸ともいえる本質があります。「何のために」となると、行動すべては意味があるものでありそこに真実もあるからです。

本来、人生は有難いものですから目先の損得では裁けないものばかりです。現代人は、その損得勘定の刷り込みにやられてしまい、苦しんでいる人たちをたくさん見かけます。本来の仕合せのモノサシを持てるようになるには、生活を正していくことしかないのかもしれません。

最後に先日のダライラマ14世の言葉で締めくくります。人間について何が驚きますかという問いに対する返答です。

「人間は自分の健康を害してまでもお金を稼ごうとします。そして今度は、その害した健康を取り戻すためにお金を使うのです。さらに人間は将来のことを憂うばかりで、今この時を楽しむことをしません。結果として、人は今も未来も生きられないのです。人は、あたかも死ぬことなどないかのごとく生き、そして一度も本当の意味で生きることなく死ぬのです。」

損得を超えたモノサシを持てることが本当の豊かさを持つことなのかもしれません。そして本当の豊かさというのは徳を尊ぶ中にあるのでしょう。損得ではなく、尊徳のモノサシを広げていきたいと思います。