渋沢栄一(1840~1931)は、日本近代経済の父とも呼ばれ、社会福祉事業にとても熱心に取り組んだ方です。今では企業や福祉は別物とさえ思われている節がありますが、本来、これらの価値観が西洋から入ってきたときどのようなものだったのかを観直してみます。
その渋沢栄一の有名な言葉に「論語と算盤」というのがあります。道徳と経済という言い方をしてもいいのかもしれません。西洋から入ってきた福祉や企業という考え方をどのように解釈すればいいかを分かりやすくしたのがこの一文でもあります。
本来、今の時代は分かれてしまっているものをどのようにその人の腹で一つにするかがこの言うところを為すことであろうと思います。
本来、渋沢栄一は富を為す根源は仁義道徳のためであると言います。これは道徳上必要な経済を起こすのが実業道であると定義しています。その実業道とは「士魂商才」といい、その実践があってはじめて為ると言い切っています。
この士魂商才の意味はまず考え方として「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである」と、その上で具体的にはこう言います。
「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である」ということです。
常に武士道精神があっての商才であること、言い換えれば正しい理念があっての技術ということであろうと思います。これは医は仁術に通じる話です。「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」ともいいます。実業道である以上、道を踏み外してはならぬと諭したのでしょう。
そしてこう戒めます。
「われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」、つまり「論語と算盤とは一致すべきものである」ということを言うのです。
そもそも分けて考えるのは、その間に自分を中心にした価値観のモノサシではかろうとするからそうなるのです。人間や自分という考え方を優先する個人主義の西洋の発想を、それまで全体の一部である自然を少しだけ優先する発想の日本に取り入れる際に人間の欲望が強まっていき次第に歪んでいったのだと思います。
分かれたもの、いわば矛盾したものを一つに調和するというものは本人の中で行うものですから、常に大切な優先しているものが何かを重んじて生きていくことが大切なことのように思います。私の言葉では論語が算盤よりも「少し優っている」くらいがちょうど善い(適善)ということでしょう。
経済が発展すればするほどに、如何に人格形成に力を入れていくか、教育の本義です。本来はこれは国家繁栄の仕組みなのだろうと思いますが、個人の慾が強すぎる昨今を眺めていると渋沢栄一が心配していた通りになってしまったと実感しています。
どのような生き方、どのような会社が本来の論語算盤、福祉企業なのか、適善社業をもってそれを今の時代に体現していこうと思います。