農作物を育てていると循環している世界の中に身を置くことができます。木と土、光と水、風と生き物、それらが関わり合いとても密接につながっています。循環とはあまりにも当たり前すぎて観えなくなっていますが、万物のいのちはめぐっているからお互いが必要としあい存在しあうのです。
万物が存在する理由も循環があるからです。地球が丸いのも、宇宙の銀河が渦巻なのもすべてはめぐるからです。めぐるために私たちも必要ということです。だから循環というのは邪魔をすることはあっても無駄というものは一切ありません。循環を邪魔する人間があるだけで、循環が無駄というものはないという意味です。
これはたとえば森で観ればすぐにわかるでしょうが、森は木が光と風と水を使って成長し、その成長した木から根が広がり葉が落ちることで足元の微生物たちを育て、その微生物たちの働きによって善い土が醸成され、その土によってまた木が育つというように、一切の無駄がないところにあるのが循環の定義です。
その循環を極力邪魔しないように手助けをして、その分だけいただくのが本来の自然の農の姿です。しかしそれを邪魔するというのは、人間が作物をすべて取り尽くしその循環を邪魔するからその分、肥料をたくさんやらなければならないし、それに虫の食べ食べられる関係が崩れるからその分農薬をたくさん使わなければらないとなるのです。結局、周りの生き物たちと生きようという思いやりのある心ではなく、自分さえよければいいという考え方が悪循環を引き起こすのです。
そうやって如何に循環を邪魔することが、結局は費用と労力をたくさん使っているのかを考えないといけません。長い目でみればとても大損をしているのに、目先(自分のこと)だけを皆が意識するから誰もそれを間違っているとは言わなくなりました。
昔の人たちは自然を観る力、自然に活かされる謙虚な心をもっていたから循環が素直に観えていたのでしょう。だからこそ祖神たちの智慧が自然の技術に裏付けされているのです。彼らが使う技術とはすべて循環技術(自然の智慧)だからです。
そして野菜づくりに限らず、余計な仕事を増やして費用と労力ばかりをかける人は自分が循環を邪魔しているのに文句ばかり言う人になっていきます。矢印を他人にばかり向けては不平不満を並べます。本来の自然な流れを自分から壊しておいて大変になっているくせに、それを誰かや何かのせいにします。
人間の育成も本来は循環があったのですがその循環を邪魔することで無駄という考え方を人間の中にも入ってきました。それは人間でいえば教育なども余計なことを教えれば教えるほどに都合よく育てられますがそれが後で大変な費用と労力をうんでしまうことに似ています。
如何にその人らしく社會の中で循環するのを邪魔しないか、そういう生き方をするのも本来の人間の循環の役割を果たすことです。その人がその人らしくあるがままでいられるようにするには、ちゃんとその人が循環するように信じて見守る社會があるということです。誰かの仕合せを奪ってまで幸せになろうという考え方がそのものが悪循環の社會を創造してしまうのでしょう。
長くなってしまいましたが、本来の循環は私たちが人為的に行うのではなく自然のいのちのめぐりの姿です。その自然のいのちのめぐりを邪魔しないように人間の知恵を使い手伝うことで好循環が生まれます。好循環が生まれればそこに発展と繁栄があり、万物のいのちを活かす偉大な力を享受することができます。
人間がいくら頑張っても、太陽をつくれませんし、空気も水もつくれません。なんとなく科学で作ったとか言っていても、それは少しそれっぽくしたものを自然の力を借りて道具にしただけです。そのものの本体など大きな循環が生み出したものですから人間がどうにもすることはできません。原子力などもそうですが太陽に敵わないものを似せてつくったって結局はその人為こそが無駄の証明になるのです。
如何に循環を邪魔しないか、そこに自然の叡智をお借りする人間の謙虚な生き方があります。大いなるお互い様の世界に生きることこそ好循環の生き方です。まだまだこの世界を自然から学び直していきたいと思います。