先日、昔ながらの焼酎の蔵元を見学する機会がありました。以前、千葉の自然酒の蔵元を拝見したことがあったので、どのようなところだろうと思いましたがそこは機械によってほとんどが出来上がっていました。
本当に昔ながらというものは、今の時代にはほとんどが遺っていません。それは機械を導入し合理化され大量につくられるようになる時期から大きく変わってきたように思います。
西洋から入ってきた文明というものは、大量生産大量消費の価値観です。手間暇かけて丹精を籠めて丁寧にものづくりをする職人文化よりも、限りなく科学力で近づけて似せてくるという文明です。
時間がかかるものをすっ飛ばして似たような結果と成果を出す仕組みです。自然の都合は省みず人間の都合で進めていくということでもあります。
この世がもしも人間だけしかいないのならば人間の都合でもいいのですが、人間以外がありますから当然に自然の都合というものも慮る必要があるものです。しかし人間の都合に合わなくなるとさらに人間の都合に合わせようとするのが今の時代です。
それに歯止めをきかさなければ、最終的には自然の都合で人間都合が終わってしまうのでしょう。昔の人たちは少しだけ自分たちの慾を自制し、全体のためにどうやるのがもっとも最善かを考えて行動していたようです。
しかし今はほとんど昔ながらの作り方をするところはありません。本物が何かが分からなくなった今、私たちは判断基準を見失っているのかもしれません。
酒造りは、麹と酵母と酵素が活かしあって発酵によりできてきます。味噌も醤油も全部、発酵するものはそのハタラキによりできてきます。毎回、その生き物たちのハタラキを見守ることでとても美味しいものができあがります。
私たちが本当に美味しいと感じるものは、舌先三寸のものではなく微生物たちが活動したハタラキを味わっているのかもしれません。古酒であればあるほどに丸みがでるのも、年老いて丸みが出てくるのと同じように思います。
何が本物かを身体で覚えられるならば、私たちにもその本物の真価を見極めることもできたでしょうが今はそういうものも身近にありません。過去の文献から探してきて自分でやってみるしかないのかもしれません。
発酵を学んで3年目ですが、その深さ味わいは年々増していきます。かつて冷蔵庫がなく保存がきかなかった時代、身近な自然からどれだけ腐敗と発酵の真理を学んでいたか、先祖たちはいつも自然から技術を学びどうやったら地球の中で全体のお役に立つかを学んでいたのです。
物がなくても仕合せだったのは、自分の存在が地球の一部として貢献できる喜びに包まれていたからかもしれません。生き活かされる関係の中にある思いやりや愛に満たされていたのかもしれません。
昔ながらというのは、何をもって昔ながらというのかもう一度見直す必要を感じます。時代が移り変わるのも必然ですから大事なのは温故知新です。本物を見極めその本物の技術を磨きあげつつもより自然や全体が仕合せになるように手配することを学び直すことが子孫のために大切な本質を継承することにつながります。
昔ながらを心に大事に抱いて往きたいと思います。