信の実践~自分が正しいを手放す勇気~

人は無意識に我執や自我に捉われているものです。それに気づけば自分を中心に正しいとか間違いとか誰かを裁かなくなっていきます。そのためには「認める」という実践を積み上げていくしかありません。

認めるために最初に必要なのは、「自分が正しい」というものを手放す勇気が要ります。自分を突き通せば突き通すほどに他人の言っていることを素直に聴けなくなります。認めるというのは言うを忍ぶと書きますが、これはまず自分が正しいというのをどれだけ忍べるかに由るのではないかは私は思います。

自分が正しいなら本来、相手も正しいのです。なぜならその人にとっての意見は何らかの理由が存在するからです。つまりどの話も一理あると聴けるかどうか、相手の話を素直に受け止めて正直にいられるかどうかということです。

他人の話が聴けるようになるというのは本当に難しいことで、それは相手を尊敬し尊重することができるようになってできるものです。自分が正しいと依怙地になり自分を守っていたら、他人の思いやりや真心にまで反発してしまいます。言うことを頭で従順に聞くのではなく、あるがままに思いやりや真心で聴けるようになるには「自他を信じる実践」の積み重ねで人格が研鑽練磨されていく中で次第に身についてくるように思います。

つまりは認めるという実践は、自分が正しいを手放す実践でもあり、その実践は自他を信じ切る実践でもあります。このように実践により信を積むためには、傾聴、共感、受容、感謝、これを言い換えれば「きっと何か自分には分からない大切なことを教えてくださっているのだろう」と自分の周りにあるすべてを師にしていくような謙虚さが必要です。

どれもこれも道の実践ですから、簡単にはいかず長い時間がかかるものです。常に内省し改心を怠らず、見守られている感謝に報いるためにも精進していきたいと思います。

体験を味わう~共感~

自分の体験というものは何よりも尊いことです。なぜ体験が尊いのか、それは共感することができるからです。共感こそが人との絆を結び大切な人と人とのつながりをつくることができるからです。

自分が体験したことの集積が人生です。

その人生が如何に充実したことであったかはその日々をどれだけ深く味わったかということです。味わう中で感じたこと、心も感情も体も一体になって真摯に共感し道を歩んだ中で得た体験こそが何よりの財産であるのです。

しかし実際は体験しているはずが、体験になっていないことがあります。心が着いてこない体験はただやっただけになります。味わうことがない体験は知識としては分かっても共感はできません。

自分の人生は必ず他人の役に立つと信じている人は体験を怠ることはありません。如何に偉人のことを学び、周囲の先生のことを知っていても、その人になることはありません。

それはその人の知識を求めるのではなく、その人が求めるものを自分も求めなければ本当の意味で同体験をすることができないからです。私も尊敬する先師が沢山いますが、その人の足跡ではなくその人たちが求めていたものを求めています。

だからこそその人たちが求めた体験を渇望するのです。

それは単に似た体験をすればいいわけではありません、求めた質量が体験の質量に転換されますからそれだけ高大な志を抱き続け研鑽を怠らず精進をしてはじめて体験が近づていくのです。

その人が求めている理念を自分の理念としてどれだけ本気で取り組むか、そこに一緒に体験する尊さがあるのです。その体験で得られた共感こそが、他の同じように苦しみ悩み道を迷う人たちの勇気になり励ましになります。

自分の体験からの共感があれば自分自身も同じ道を志す同志たちと心を通わせます。また同志たちの体験に自分も深く共感し切磋琢磨し学び合う仕合せを与えることもできます。

自分が一生懸命に生きるだけでそれが多くの人たちのお役に立つという実感。偉大な循環の中で自分の生を生き切ることの大切さがその日々の実践の中に存在するのです。

体験したいと望む心は好奇心から来るものです。

頭でっかちになるのではなく志を高め続けて有難い体験を味わ盡し求め続ける日々を歩んでいきたいと思います。

自分の道~人生の醍醐味~

人間にはそれぞれに与えられた人生があります。産まれた時から今に至るまで、その人にもっとも相応しいものを与えてもらい今の自分が存在します。自分というものの認識は、今与えられている全てに感謝できるときにだけ本来の自分であることができるものです。

しかし人は不平不満から与えられていることよりも、不足していることの方にばかりに関心を抱き、今を受け容れることをしないものです。

その代表的なものが「自分で決める」「自分で歩く」ということの放棄です。

物事に限らず全ての機縁は、来たものの選択によって左右します。言い換えれば日々は全てにおいて「選択と判断」によって大きく変化していくからです。来たものに対してどちらを選んだかで未来は全て変わっていきます。

来たものに対して自分にとって都合の良い方ばかり選ぶ人と、来たものに対して自分にとっては都合が悪くてもそれ以上の大切なもののために最善を選ぶ人と、それはその人の生き方といった判断基準によって変わってくるものです。

ある人はチャンスをすべて棒に振り、ある人はチャンスは全て活かすのです。それは判断次第ですが、その判断がまともにできるのなら人間はみんな完璧な存在になります。しかし人間は本来、与えられた役目がありますから完全な存在です。それを前提に物事を省みると、来たものを選ばないことが最も今の自分に相応しいということになるのです。

そしてその時、同じ出来事を通過してもその体験の質を考えないといけません。つまりは、その道は与えられたものを歩かされているのか、それとも自らが歩んだかということです。

もしもその人が自らの運命を信じてすべて来たものを選ばないと決めているなら、矛盾していますが本当の意味で選ぶことを決めなければなりません。向こうから日々に訪れた時処位に対して歩かされてしまうのか、やらされてしまうのか、それとも自らが歩むのか、自らで決心したのかは唯一その瞬間瞬間に選択できるものだからです。

人生というものは、外側の世界をどうするかではなく自分の内側の己に対して如何に正直に素直にいるかということが本当の勝負です。だからこそ、目の前の出来事に対して頭ばかりを使うのではなく、出来事を心を味わい、それに対して自らが積極的に決心をし進んで義務を甘んじる勇気と実践が何よりも大切なのです。

日々の仕事にしても、やらされている人は与えられているものを結局はちゃんと受け止めずそして単にそれをこなしているだけで敷かれたレールの上を背中を押されて歩まされているだけになります。人生は一度きりですから、レールがあるならそのレールを自らの決心で受け容れ、自らの足で歩んだときそのレールは最幸のレールになるのです。

親のレールであれ、誰かのレールであれ、今のあなたがいるのはそれはもっとも相応しいからそこに在るのですから文句を言う前に大事なのはそのレールに感謝しそのレールを自分のものにする覚悟こそ「道」だと思います。

道を単なる道路にしてしまえば目的地までいくのは自分勝手にできるのかもしれません。しかし道は単なるレールでも道路でもなく、あなたに与えられた唯一無二の道なのです。

道は自らの足で歩んでこそです。

本当の自分を取り戻すには、何よりも日々の瞬間瞬間を選ばずに選び自らの足で道を「切り開き踏み締める」ことで得られると思います。人生は気づけば何度でもやり直せるのも道の御蔭様です。

子どもたちに見せられる背中を歩んでいきたいと思います。

上下の刷り込み

人は組織の刷り込みの一つに、上下関係があります。

体育会系の組織になどによく見られるものですが、上と下とを分けては立場を与えてその関係を築きます。上は下の世話をし下は上に従うという関係です。これは評価の中に上下という物差しを入れて管理するからそうなるとも言えます。

ピラミッド型の組織にし、上下を設けて管理すれば自ずから組織の中に上とか下とかいった評価が発生します。自分がどのように評価されるか、人はそれを気にして動くようになりますし何をすれば評価されるのかを求めるようになってきます。

しかしこれが行き過ぎると、上の人たちは下の人たちのためにとても苦しむことになります。また下の人たちも上の人たちに苦しくなります。それは互いに助け合うよりも立場が優先されるようになってくるからです。

本来、自分でやれるところは自分でやるのが当たり前です。なぜならそれが組織である理由、集団である理由、つまり一人でやるよりも集まって助け合った方が大きなことができるからです。主体的に誰かが誰かに従ったり従わされたりするよりも、お互いに協力して力を合わせて取り組んだ方が効果効率も善いしさらには楽しいのです。

立場の違いを超えて力を合わせるのは役割分担です。立場で人を配置するのではなく、適材適所に人は配置された方がいいはずです。

リーダーだからや幹部だから、先輩だからなどといった立場による管理は主体的な組織を目指す場合には邪魔になるように思います。それはまるで子どもに長男だからとか、長女だからとか評価を押し付けるのと同じです。

長男長女だからでもなく、幹部やマネージャー、先輩やベテランだからではなく、信頼が篤く認められていると思う人を配置していくといいと思います。そしてその評価の基準は、人間関係の絆の深さと信頼関係の厚さ、つまりは人格であるということでしょう。

能力だけで人を使うと信頼は別になります、信頼するから人はお互いに助け合うことができます。組織の価値観に何をもっとも優先するかはそのリーダーの理念に由るところです。

上下の刷り込みで苦しんでいる組織が多いからこそ、子どもたちの社會に安心して適材適所の集団を築き上げていけるように大人たちの中に見守る環境を広げていきたいと思います。

本心

人は自分の本心を知ることは何よりも大切なことです。一番身近にいる自分に素直になれなくなってしまえば、些細なことでも迷いが出てしまいます。それくらい自分というものとの信頼関係は日頃の生活に直結してくるように思います。

人は自分のことが分かってくればくるほどに、自然体になっていきます。それは本心が分かり本心に対して素直になれるからです。本心でいられればありのままの自分を分かってあげられますから同じように他人のことも理解していくことができます。

他人のことを思いやれる心というものも自分を分かってほしいときではなく他の誰かのことを分かってあげたいと理解に努めるときに次第に実践できるように思います。

理解が深まるとき、相手のことがまるで自分のことのように理解できます。そうなると自分の本心が相手の本心を励まし支えていくことができるのです。このように繋がっている場所、一緒である場所、そういう絆の結ぶところで心は一つになっているものです。本心というものは、自他の境目を超越したところにあるのです。それが自分に素直に正直である状態です。

そして共感する力は相手を分かろうではなく、心で相手に寄り添おうとするようなときに発生します。わかってもらいたいと満たせない心を持ち続けると、己に負けてしまいかえって迷い惑うことが増えていつまでも自分探しなどに走ってしまうのかもしれません。

そういうときこそ、「本心」を理解するために誰かのために思いやり利他で抜けるといいように思います。本来、人間の心の正体は利他心ですから自らが助け合い思いやるときにこそ顕現するのが心です。

心の穢れを祓い清めて本来の本心を常に見守り続けていきたいと思います。

多生の縁~志事と仕合せ~

自他一体の話をブログでも書いてきました。これは自分と人とを分けないということですが、もっと卑近なところでどのように訓練をするのかを書いてみようと思います。

そもそも自他一体である必要がある理由は、他人ごとにすることで様々な問題が起きるからです。

仕事でもなんでもそうですが自分の事とは思わず他人ごととして相談にのってもその人が助かるアドバイスができません。それはその問題の本質を自分のものとして捉えていないからです。つまりは自分のものではない仕事は、そのまま仕事ではないということです。

先日テレビ番組でカラオケで得点を競うものの中で、ある人の歌が他人の歌を自分のものにしていたという解説がありました。あれと同じく、誰かの歌をただ歌っているだけでは心に響くものはありません。誰かの歌を自分の歌にしてはじめて周りにその歌の本質を自分なりに伝え感動させることができるのです。

言葉も同じです。

他人の言葉をいくらなぞって象ってそのまま伝えてみてもそれは相手には響きません。他人の言葉で感動しても、その言葉を自分のものとしてはじめて相手はその言葉に感動するのです。

これは先ほど自他一体に近い話で、仕事は全てにおいて「自分のもの」にしていく必要があります。いくら頭で理解してもそれが「他人のもの」になったままでは仕事にはならないからです。

先ほどの歌の事例ならば納得するまで徹底して共感して歌いこんでその歌の本質をもとの歌者の心を掴み納得するなどの過程があるのです。仕事でも同じく、本来の仕事の意味や定義を納得するまでやり込んでいないと決して本来の仕事にはならないのです。

如何にどんな出来事も仕事も「自分のもの」として捉えるか、それが分けないということなのです。これは自分には関係ないからと分けると、その分けたところが他人のものになっていくところです。

どんな出来事も自分には必要な尊いご縁しか発生しないのが人生です。いくら関係ないとめんどくさがっても事実、そのことが自分の人生に多大な影響を与えているのはすぐに時間が経てば自明します。だからこそ、他人ごととは思わずすべてを自分事にし、目の前の人の問題はまるで自分の問題そのものだと親身に親切になりきってこそ自他一体になったと言えると思います。

心が成熟して技術も精神も練り上がっていくと、人は次第に自他一体になっていきます。つまりはご縁の活かし方に長けてくるということです。人はご縁によって教え教えられ成長しますから一期一会の御縁をどれだけ大切にしているかが何よりも重要なのです。

全ての御縁を「自分のもの」にしていくのが、すべての御縁を「他生(多生)の縁」にしていくことです。如何に日々の生活の中で絆を大切に生きていくかは、全てのことを志事だと真摯に訪れた機会を最大限活かすことです。

自分の都合で物事を捉えずに、常にゼロベースで意味を感じ取り他人の仕合せを自分に仕合せにして歩んでいきたいと思います。

時間

先日、地層や地質のことを調べていたら1億年前や5000万年前などといった悠久の歴史を刻む姿に色々と思うことがありました。時間というものの長さ、時間の持つ意味、今回は時間というものの認識について深めてみたいと思います。

そもそも時間とは一人一人、その生きているものによって認識が変わります。例えば大都会で生活する忙しくしているビジネスマンの持つ時間、どこか田舎や島で暮らしている人たちが持つ時間、他にはまだ幼い子どもや老人、他にもその時の心情によって時間は変わります。

つまりは時間というのは、時計で過ぎていく平均的な1秒や1分と違い、人それぞれによって流れている速度は変わっているのです。

その時間の密度が濃い人は、同じ体験をし同じ時間を過ごしていても決して同じではないのです。その人の思う時間というものの哲学によってそれは異なるということです。

時間には悠久というものがあります。

これは地層を観ていて思うのですが、何億年という歳月を地球の大変動の中でその歴史を刻んできた証に心を寄せて観ます。すると、そこには魂というような生き物の中に流れているものを感じずにはおれないのです。

寿命は長くても100年、昔はもっと短かったのです。そしてそれは多様化した他の生き物たちも同じです。それをずっと繰り返して今に至るまでの道のりに、時間を思うのです。

何をもって死とし、何をもって生とするか、地球の中に生きているものたちは時間を持ちます。時間の中で、巡り循りて魂が生き続けているのです。魂というと宗教的だとか言われそうですが、その場合は意識といってもいいのです。

意識は時間を語ります。

意識を何億年も前からの時間に合わせてみると悠久が観えますし、意識を地球の数百倍の大きさの星々に合わせてみれば偉大が観えます。そうやって小さな自我の意識ではなく、それを凌駕する意識でもう一度時間を眺めれば私たちの人生はその広大無辺の時間のたった一瞬であることに気づくのです。

その一瞬の光が続いているのが星々だとしたら、途切れるものではないのが時間であることに気づきます。ここから時間を捉えられれば途切れていないものが魂ということになります。

不思議なことですが、生きているや死んでいるという感覚は途切れていない時にこそ本来実感できるものなのかもしれません。

時間は途切れませんから、同じように時間を感じれば時間は意識することができるのでしょう。悠久の歴史、そのものが時間だということです。自分の魂もまたその悠久の歴史に合わせて大切なお役目を果たしていきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

生き方のリハビリ

仕事にはリハビリの効果があると言われます。これは単にリハビリの仕事のことを言っているのではなく、生き方をリハビリできるという意味です。

今までどのように生きてきたか、その人の生き方は仕事だけではなく日常のすべてに表れてきます。これを個性だとか思い込んで変わることを避けている人もいますが、実際は個性ではなく生き方の問題なのです。

生き方とは、自分がどのように今まで生きてきたか、そしてこれからどのように生きて生きたいかです。私たちの会社では信念の種というものによってその自分の目指す目標をはっきりと定義して仕事に取り組むようにしています。

そしてその時の仕事とは何か、それは単に結果だけ合わせればいいわけではなく生き方に合わせていくものなのです。つまりは、仕事=生き方、生き方は働き方ということです。これを一致させていくとき、それは本当の志事になります。

そもそもリハビリというものは、本人が直したいと思ったときにはじめて行えるものです。これは先日、あるリハビリ師の方にお聴きしたのですがいくら優秀で有能なリハビリ師がいたにせよ本人が直そうと本気で思わないのならなかなか直らないといいました。

本人自ら主体性を発揮して直そうとしない限り、どんなに善い師匠が傍にいたにせよそれでは直らないという意味なのでしょう。本人が心底直したいと反省し改心し改善するとき、リハビリ(本来あるべき姿)に回帰することができるのです。

今まで歪んだきた人生をもとのあるべき姿に戻すには自堕落した部分を訓練により立て直す必要があります。その立て直すのに最も効果があるのが仕事ということです。

その仕事の仕方そのものを本来のあるべき姿に戻す時、本来の自分自身の姿、もっとも自然体で世の中の人たちに役に立つ自分が顕現します。つまり自分自身でいるままがもっとも全体に貢献できる姿になるということです。

それを実現するためにもコーチがいます。会社でいえば寄り添ってくれて真心で心配し見守ってくれる仲間であったり上司です。そういう人たちの話を素直に聴いて如何に仕事によって本来の姿に到達するか、私は理念によってそれは行われるものだという信念がありますがそういう機会を日々に得られていると思うだけで感謝になると思います。

感謝を御恩返しするのは仕事によって実現します。決して仕事はやらされるものではなく、させられるものではない、それは自分自身を常に直すためにある。だからこそもっと質を高めよう、もっと自分自身になれるように精進しようとするのが最初の心構えと心がけなのかもしれません。

心を入れてはじめて精進ですから、常に日々に改心改善を続けていきたいと思います。