謹厳実直

先日、映画俳優の高倉健さんがお亡くなりになりました。筑豊の中間出身で、以前取引があった保育園で園長から保育園に通っていた小さいころのことなどをお聴きしたことがあります。その園には高倉健さんからの色紙がありそれが玄関に大切に飾ってあったのが印象的でした。

座右の言葉が「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」というものだったそうです。この言葉は天台宗・比叡山延暦寺の大阿闍梨、酒井雄哉氏から贈られたもので一生大切にしたそうです。

この言葉は『大無量寿経』の中に記された阿弥陀仏の言葉の引用とあります。それは「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」という言葉です。(たとえどんな苦毒の中にあっても、すべての人を救い切る「南無阿弥陀仏」を実践しそれが成就するまではどんなことがあっても決して精進をやめない、そしてどんなに苦労しようと私は悔いはない」という意味になります。

とても素敵な言葉です。

そしてこの言葉を実践して生き切った余韻や香りが、故人の生き方から観えてきます。人はどのようなことをしたかではなく、どのように生きたかが亡くなってみてはじめて観えてくるように思います。

人が偉大だと実感するのは、どうしたかではなくどうあったかということです。

自分の信念を掲げ、一生精進して歩んだ人の道や背中には何を大切にしていくべきかという偉大なメッセージが入っているように思います。常に後を続く者たちの模範であること、常に後に続いてくる者たちのために生きること。

道を続いてくる後人のために自分の生を譲り生き切るという生き方は、今の時代のように自分の人生のことだけに囚われてあるものを使い尽くそうという中で、高倉健さんの生涯は不器用ですが実直で正直な生き方ではないかと改めて感じ入るものがありました。

まさに「謹厳実直」という生き方を教えていただいた気がします。

同じ時代に生きている方の御縁を大切にしていきたいと思います。

刷り込みを取り除く目~本質を味わう~

人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。

科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。

特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。

以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。

これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。

こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。

本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。

何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。

如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。

自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。

日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。

 

 

楽問~性格スキル~

昨日、保育環境セミナーにて藤森平司先生の講演を拝聴しました。

将来、大人になるにおいてもっとも幼児期に伸ばしたい力とは性格であるというお話がありました。確かに人生を振り返ってみても、いくら能力が高いからと幸せになるのではなくその人の性格が善いから皆に好かれ周りを仕合せにできます。

人は一人で何でもできるよりも、沢山の人たちとの御縁を活かして一緒にできる方が楽しいのですからどちらがより仕合せかはすぐにわかります。そのためには社會の中で助け合い笑い合う仲間づくりをするにも性格が大切な要素になります。

以前、成績よりも性格というアドバイスをいただきましたが改めて人間として周りを思いやれる力を伸ばしてあげることが何よりも幼児期に必要な力だと再認識することができました。

つい昨今の大人たちは、目先の能力ばかりを子どもに求めて身に着けさせようとしますが人を大切にしたり配慮したりやさしくできたりする方はあまり大事にされていません。しかし人間生きていたら、誰かを思いやれる人や真心の人、誠実な人、人の気持ちが分かる人の方が自らの生死の局面において何よりも大切な人であったと気付けます。

性格を磨き高めることは一生の学問ですから、孔子をはじめ古今東西の聖人たちすべてが目指したところです。

昨日の話の中で幼児期に身に着けるといい5つの性格スキル(ヘッグマン)について話がありました。それを紹介して今日のブログは終わります。

①粘り強さ、自己規律、これらが真面目の力。
②好奇心が強い、想像力に優れている、これらが開放性の力。
③明るい、積極的、外に興味を持つ、これらが外交的の力。
④思いやり、やさしさ、利己的ではない、これらが協調性の力。
⑤感情を整える、不安、イライラなどの衝動がない、これらが精神的安定の力。

これらの力が高いならそこに人が「自立」していることはすぐに自明します。
人間として、助け合い共に生き残る力を育むことが保育の本質なのかもしれません。

引き続き日々、道の中にある新鮮な楽問を実践し続けていたいと思います。

自堕落と向上心

自分が向上しているのかを客観的に自覚するのに自堕落の三要素というものがあります。自分がやっている気になっていても、やらされているのでは自らを自らで積極的に高めていないかもしれません。常に自分の人生において自分を育てるのは自分自身ですから自分がどのように自分を育てているのかを自覚するのは大切なことのように思います。

その自堕落の三要素とは、下記です。

①形式的であること(心を籠めない)
②便宜的であること(この程度でいいじゃないか)
③小市民主義であること(自分だけのちっぽけな問題にとらわれる)

一つ目の形式的はそのままで、形だけ結果に近づけはしますが自分の真心を籠めようとはせずに頭だけで考えて取り組むことです。どんなに善いご縁や機会、環境に恵まれていても頭で形だけをなぞっていては自分が向上することはありません。心を籠めることではじめて自分を活かすことができます。

二つ目は、自分の中で間に合わせでその場しのぎで乗り切るということです。これはぎりぎりになったからや忙しかったからなど、今風でいうところのてきとーに面倒だからそれで済まそうとする考え方です。メンドクサイとなんでもいい加減に取り組んでいたら本質的に取り組むことができません。その場だけでいいというのは、後のことを考えていないからです。自分の目的や初心を忘れないことで自分を活かせます。

三つ目は、自分の価値観に縛られて周りを省み慮ることをしなくなることです。自分が大変ではなく周りもみんな大変なのです。自分の心配ばかりに捉われて周りを思いやることができなくなれば自分を周囲のために活かしていくことができなくなります。どうせなら自分の問題はきっと世界の誰かのお役に立つと転換したり、自分の問題そのものは社會と繋がっていると思った方がいいのです。自分の問題に捉われるのではなく、もっと視野を広めていくことで自分を活かすことができます。

このように自堕落というのは向上心が減退することで発生してきます。人は自分には甘く他人には厳しいものです。自分に厳しく自分を律することで自立することができますから、まず自律ができるようになってはじめて自立して誰かのために自分を活かし働くことができるように思います。

自堕落ができるというのはその陰で、誰か自立している人に依存している自分がいるかもしれません。すべての問題を自分の問題として矢印を自分に向け、主体的に積極的に自分を成長させるために日々に精進していくことのように思います。

それは誰かの目に見えるところばかり求めるのではなく、目には観えない本質を正しく捉え、理想に自分を近づけて高めていくことです。

日々の生き方を定め決心して本質的に歩んでいくことを引き続き大切に本物のままにしていきたいと思います。

正解よりも正直に

今の時代は正解を求める人が多いように思います、小さな頃から教育によって正解があると思い込んでしまうことで刷り込まれてしまうのかもしれません。

正解があると思うから完璧になることを求めたり、どうしても正解に対して減点法で物事を捉えてしまいます。つまり何が答えなのかを探ってしまい、答えがあっていると思えば安心し答えが分からないから焦るのです。

例えば、お医者さんが患者さんを手術はできても心を寄り添わずに手術して病気は治るのかという問いです。手術は問題なく正解通りにやったといったってそれでいいわけではありません。病気になっているのだからその病気に寄り添い、そのうえで手術するのですが患者さんは医者が正解通りであることは求めていません。それよりも心を通わす正直な関係であることを望むのです。

普段の仕事一つとってもそうです。仕事に正解があったとしてその段取り通りにきちんとできたから正解であるわけではありません。もちろんミスなくその仕事は段取りよくできたかもしれませんが、相手がいるのが仕事ですから相手に心を寄り添い思いやり誠実にやったかどうかは段取りとは関係ありませんから仕事は正解だったとしてもそれが正直であったかどうは別なのです。

正解よりも正直であるということは何よりも大切です。

それは頭で考えて仕事するのが先か、心を寄り添い仕事をするのが先かという優先順位の問題になります。人間は頭で考えて仕事をした後に心を入れることはできません。私たちも一円対話というのをする前に、心を整える内省をしますがいくら頭で内省したと思っていてもそれは内省ではありません。頭で正解だという刷り込みを持つ時点で心の優先順位が下がってしまうのです。

そんなことをするとせっかく真心や思いやり、正直になった自分をいちいち頭で正解にしてしまおうとすることで大事なことが失われてしまいます。合っているのだけれどなぜか上手くいかない、正解なはずなのになぜかおかしいという感覚に陥ります。これでは大切なご縁も機会も見失ってしまうことになります。

いちいち正解にしないと気が済まないのは、考え方の中に次回は間違えたくないという観念があるからかもしれません。しかし人生を生きて観る中で実感するのは正解にして間違わないことよりも、正直にやって誠実に取り組むことの方が本質的には間違っていないのではないかと私は思います。

なぜなら人は誰しも自分が体験したことが誰かのお役に立つようにできているからです。自分が体験したことを深く味わい、その体験したものを乗り越えたり同じ体験をしよう、もしくはしている人と一緒に乗り越えようと心を寄り添うのならばそれは必ず誰かのお役に立っています。

変に頭で考えてお役に立ったかどうかを正解を求めて思い込むよりも、心を寄り添い体験したことをそのままに伝えて一緒に助け合った方が本当の安心が得られるからです。人は安心したいから頭で考えるのでしょうが、頭で考えてばかりだから不安になるのです。正解を聞いて安心するという悪循環は、これはやはり「正直」で抜けるしかないと私は思います。もともと安心している人はみんな正直です、安心しているから頭で考えずに心が定まっています。そして安心すると信じることができます。

自分自身が安心したいから正解を求めるのか、それともそもそも安心しているから正直にいるのかではその生き方が違ってきます。みんな生きていたら正解が無数にあり、どの正解も間違いであることだってあります。

その人一人一人の人生の中に正解があるのではなく、そこには正直があるだけです。せっかく産まれてきたのだから何か必ず体験したいことがあるのが人間ですから、知識を先にいれて体験しなくてもいいという不自然な道理はないように思います。知識を先にいれて正解を求めるのをどこかでやめて正直に生きて誰かの役に立てる喜びに安心して生きる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。

人生の御守

自分の心の状態次第で視野というものが変わってきます。自分が満たされていない時や自分が不安なときは知らず知らずに視野は狭くなってくるものです。本来満たされないから満たすのではなく、満たされているから満たせるのですが謙虚さや素直さがなくなってくるとすぐに求めはじめます。そうなると心が観ている世界よりも現実の世界だけしか見えなくなります。

例えば、問題ということの考え方があります。視野が狭く余裕がないときは、早く問題を解決したいことばかりに捉われるものです。そうなると問題そのものよりも解決したいとばかりに躍起になりますから問題を正しく見つめることができません。一時的に解決したと喜んでもすぐにまた同じ問題にひっかかります。対処療法ではないですが、その時だけの問題を解決しても根源治療にはなりません。

もしも心にゆとりがあり、視野が広いなら問題というものを見つめようとします。私の言葉ではよく問題を味わいましょうという言葉になりますがその問題そのものを観察しそれをじっくりと味わってみようという観点を持てます。そうすると問題の本質が次第に観えてきますからすぐに解決することよりも問題をどう学びに転じようかと味わい楽しんでいくことができます。そうなると問題そのものが解決になりますから問題がなくなってしまうのです。

このように問題は解決するのではなく味わうことで視野を広げるのです。つまりは視野が広いというのは問題をなくす方法ともいえます。日々の仕事や取り組みの中で如何に解決解決と考えるのではなく、一度しかない人生の中で出会う様々なご縁に対し、そのご縁を味わい学び活かしていきたいと生きることで丸ごと問題は全て善いことになるということです。

そのためには理念が必要です。

何のために自分が生きるのか、何のために働くのか、つまりは自分がどう生きるのかという「生き方」を定め、常にそこから考える習慣を持つ必要があります。生き方が定まっていないとすぐに自分の判断を目先の問題からなんとかしようと思ってしまいます。生き方が決まっているなら、どうするかではなくどうありたいかと自分の初心を取り戻したところで判断できるからです。

どうありたいかと思うとき、現実の問題よりも自分の問題が現れます。人生は常に自分自身の問題ですから自分との問答に於いて信念をもって生きていくしかないのでしょう。この信念を助けてくださるのが人生の御守ともいえる理念です。

心に理念を持つことは、人生に御守を持つことです。

一度しかない人生で後悔しないように、自分が何を優先しているのかを忘れないように日々理念を御守にし生き切っていきたいと思います。

真の親切~情けは自他のため~

「情けは人のためならず」という諺があります。

本来は「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」で親切は必ずお互いに善いことになっていくという意味ですが今ではそうは使われなくなっています。特に今では、情けをかけるとその人のためにならない、情けを仇で返されるなどというように誤解されています。これは情けというものを正しく理解していないからそう感じるのではないかと私は思います。

そもそも情けというものは、自我欲から出てくるものではなく真心から出てくる親切心のことです。これはまるで親心のようで、親は子どもに対して見返りを求めず無償の愛で真心を盡します。これは自然界も同じく、産まれた子どもを自身を削りながら大切に育てていきます。そしてこれは見守る心とも同じです。

それほど情けは見返りを求めるものではなく与え続けるものです。自分の中で知らず知らずのうちに与えるものが求めるものになっていくのは自我や欲が入り混じってくるからです。それでは善いことが悪いことに転じてしまいます。

本来は、善いことを福に転じていけば至誠になります。同じように親切を御蔭様に転じていけば真心になります。しかし自然にそれができるようになるには自他一体になるほどに自他に正直である心を磨いていくしかありません。そしてここには依存と自立の関係もまたあります。情けはもちろん大切なのですが、自他に素直に謙虚になれないならその情けがかえって欲を助長する依存関係になってしまうからです。

実際に困っている人を助けることは尊いことです。情けが面倒だということになれば助け合わなくなりますから本末転倒です。だからこそ御蔭様の心で、「お互いに天から頂いている福を分けただけ」というすっきりと明るい関係を築くことでお互い様にしていくことが大切なのでしょう。

自分が見守られているから同じように誰かを見守る、自分がいつも助けていただいているから同じように誰かを助ける。自分が体験したのだからその体験を誰かの役に立てていくことが「親切」の定義なのです。そう思えば謙虚に素直に自分のいただいている感謝の心を他人にも循環していくことが真の情けになるように思います。

そして人情の学びは、他人だけではなく自分も大切にする心です。畢竟、人はもっとも身近にいる自分自身の心に正直で素直でないと他の誰とも正直で素直な関係を築けないのです。

社會の中で生活するもの同士、お互い様の心で目の前の人は明日の私、周りの人たちはみんな未来の私と思って親切をさせていただける機会とご縁に感謝していきたいと思います。

いつも満たされないから満たすような傲慢な感覚ではなく、いつも満たされているからこそ周りも満たすような謙虚な感覚、利己ではなく利他、つまりは自我や欲を満たすための親切ではなく、本来の意味の誠と真心の親切を実践していきたいと思います。

 

求道伝道の志~本質と哲学~

人は本質的に日々を過ごしているかで積み重ねているものの価値が決まります。何を大切にしているかは人の生き方ですが、その生き方が影響を与えるのは本質的である時だけです。

本田宗一郎の有名な言葉に下記があります。

「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である。」

これは理念という言葉を本質に置き換えればすぐにわかります。本質なき行動はまるで凶器のように危険であり、本質なき行動は何の価値もないということです。ここでの本質は会社でいえば理念になります。理念とは、何のために行うのかということですから理念が初心であり、その初心を忘れてはいけないと定めたのが理念だからです。

しかし実際の人たちは、目先に流され本当は何かを省みることもなく表面上で理解したものに従うばかりで日々を追われます。そのうち本質であることよりも結果だけを帳尻合わせするようになっていきます。

そもそも本質とは真の目的ですから、その真の目的のために動いた行動だけが価値があります。それがいくら周りに理解されなくても、それが誰にわかってもらえなくても本質を捉えて行動をしているならばそこには真の目的に相応しい価値が存在します。

しかしもしも本質から外れて何のためにかを自分の中で捉えずに誰かのものを使って形だけをなぞってみてもそれではほとんど真の目的に対する価値には転換されていかないのです。

実際の世の中には目に見える世界と目には観えない世界があります。目に見えるところだけや他人の目を気にしているだけで本質風にふるまってみてもそれでは哲学や思想を自分のものにすることはないのです。大切なのは本質がわかることではなく、本質であることです。本質だからこそ思想や哲学を持つのです、これはイコールなのです。そして世界に発信力のある一流の組織を見渡せば一目瞭然ですが世界に新しい価値を創出した一流の組織人はその組織の人一人一人の中にリーダーと全く同じ質の哲学と思想を自分たちのものにできています。

最近、師の開塾している若い塾生たちがメキメキと見えるほどに成長しているというお話を聴きました。彼らはきっと師の本質を自分の本質に転換しているのだと思います。その過程の中で、師の哲学や思想が自分のものとして内在内包されてきているから素直に伸びているのです。

単に知識や才能だけで容だけを理解して形にこだわるのではなく、生き方を私淑し真似をしてコピーするほどに丸ごとその人の本質に近づこうとする中ではじめて理念は学べるのかもしれません。それはその人が同時に本質といった目に見えないところを観ている証拠だからです。

最近実感するのは、理念を知ったとしてもそれを自分のものにしていけないのは、そこにはやはり人それぞれのセンスと努力があるのではないかとも思います。

これは振り返ってみて今ならはっきりと言えるのですが若いころからの求道の志の質量がエネルギーに転換され、哲学や思想が基礎基本になりその行動をホンモノにしているからです。そして伝道の志を持つならいくら時間がかかっても真心で諦めず常に本質からブレナイように自他の鑑をさせていただけるように精進したいと感じます。

最後に論語に「子曰く、我は生まれながらにして之を知る者に非ず。」があります。ここからみんな誰しも理念を立てて己に打ち克ち努力精進して刷り込みを取り除き人格を磨いたんだよという実践者としての孔子の後人への優しい眼差しを実感します。

日々は有難い真剣勝負の実践道場ですから、優先順位の確認を間違わないように理念の内観と反省、改善を続けていきたいと思います。

 

循環の価値観

日本には七福神という神様がいます。恵比寿様を中心に、周りには外国から来た神様たちが総勢七人で宝船に乗って並んでいる姿です。不思議な光景ですが、なんだか見ているだけで仕合せな気持ちになります。七難七福、どんなものも一切が福に転じれば宝になるという教えです。

私たち日本人というのは、「もったいない」という言葉が世界で有名になりましたが本来、無駄やゴミという発想がありません。神話に登場するすべての物事一つ一つに神様の名前がついていて、この世にあるすべてのものは丸ごと神様です。それを八百万の神々と呼んで、祖神はいつもどの神様も大切に尊びます。

西洋では、必要不必要というのを自分を中心に仕分けていきます。人間(自我)を中心にして考えていきますから、価値は人間が決めてしまいます。東洋は自然(無我)の中で一体になって暮らすことを大切にしてきましたから無駄という概念があまりないように思います。簡単にいえば無駄やゴミと思っていること自体が価値を自分が決めてしまっているということです。

どの価値も本来の価値が観えれば一切の無駄は消えてしまいます。そしてその無駄が一切ないという価値観とは何か、それは循環の価値観です。一見、要らないと自分が思っていても”必ず何かの役に立つ”のが自然です。自然は無駄が一切なく、この世の中には不必要なものは一切ありません。その価値が感じられなくなった人間’(自我)があるだけで、どんなもの一つにも価値があるのです。

世の中はつながっていて全体であり、丸ごとで一体だからです。

これが西洋と東洋のチーム観にもあるように私は思います。西洋のチーム観は能力の組み合わせです。能力をどう組み合わせて良いチームにするか、つまりは目的を達成するためのチームです。しかし東洋は能力の組み合わせではなく家族の結束力を重んじます、皆で結束することで困難を乗り越えようとする、要る要らないではなく全部役に立つという発想です。

ここに私は何よりも大切な思想や姿勢、「日本人としての生き方」があるように思うのです。

私たちはどんな神様も大切にするのは、一緒にいることで何かの役に立つことを自覚しているからです。その時にすぐに能力を発揮しなくても、一緒にいれば必ず何かのお役に立ちます。

今の時代は、能力主義ですから能力がなくなることを過度に怖がっている人たちがいます。能力だけ磨いて、一人で仕事をする方が効率がよく重宝されるとさえ思っていますがその人たちはどこか孤独を感じているように思うのです。それは役に立つかどうかを誰かのの価値観で決めるからです。

チームとは何かという前に、自分の価値をどのように認識しているかが何よりも大切なのです。自分の価値は能力があるから必要なのか、それとも自分の本当の価値は一体何か、そして周りの人たちの真価は何かを実感できているかということです。役に立つということの考え方を自分自身がまず観直さなければ本当のチームにはなりません。

そう考えると人は一人一人が自分自身の本当の価値を正しく認識できてはじめて「結束」になれるのかもしれません。一見、価値がなさそうなものであっても一緒にいれば何かの役に立つことを知っている心こそ「もったいない」に通じる心です。

最初の七福神のように相手の持っている宝を見出す力がある人というのは、自分の中にある宝も見いだせる人です。それはどんなものにも神様が宿っている、八百万の神々とともに暮らす人たちになっているということです。

「一緒にいれば必ず何かの役に立つ」と本当に信じ切れるかが仕合せの感度を高め、真のチームを実現する源になるように私は思います。そのために数々の刷り込みを取り除く工夫が必要ですが、実践により気づきを喚起していきたいと思います。

教育の目的

教育の技法としてのティーチングとコーチングがあります。これは教えるときの教え方ですが、よく一般的に言われるのは主体が先生か生徒かでその違いがあると言われます。

しかしこれはここが問題ではないと私には思うのです。本来の教育とは誰のためにあるのか何のためにあるのかということを考えてみると分かります。

例えば、国家教育や社員教育、学校教育とあるように教育には目的があります。誰かによって何かを教えているのはこの言葉が示すように一目瞭然です。国家が国民に国家の一員として教え込む、会社が社員に会社の一員として教え込むのです。そしてそれは何を教え込むのかは目的によって異なります。

本来、教育が示しているのは何のためにかを考えればその意図も読めるからです。もしも国家のためだけや会社のためだけ、学校のためだけになればそれは教育がその人のものではないということです。あくまでそれは権力によって管理するために教え込まれるものになってしまいます。

私が中学高校と学校に反抗した理由は単に子どもで未熟だったからではなく、学校のための教育に納得ができなかったからです。今思えばなぜあんなにも反抗したのかと思いましたが、言行不一致の本質的ではない学校体質に憤りがあったのかもしれません。そしてそれでも無理に教え込もうとする場合はティーチングというものを用います。これは主体が国家、会社、学校側にあるということです。その場合は相手が主体ではないのだからコーチングは使えません、あくまで一方的に教え込む方が進めやすくなるのです。

その逆にそもそも教育は子どもたち、相手自身の成功、本人の仕合せのためにとなるとどうでしょうか。その場合は、対象となる相手は”できる”ようになりたいと思うのを助けるという考え方になります。主体は組織ではなくその人自身の仕合せになりますから相手がそれができるように寄り添うためにコーチングを用います。相手自身の問題に寄り添い相手が自らで解決できるように導くのです。

本来、人はその人が人格的に成熟し成功し仕合せになるのなら世界も一緒に仕合せになるものです。理想論と笑われるかもしれませんが、一人一人が真摯に一生懸命に自分の役割を果たすのなら世界は必ず仕合せに出会うように思うのです。それは先日の樹木研修でも同じく、木々が一生懸命に生きていればそれが森全体の仕合せになるように、人々が一生懸命に本来の生に生き切れば社會全体は幸せになるのです。

それを日本理化学工業の大山会長は、「皆働社會」と名付けていました。私もその考え方に心から賛同しています。

そしてティーチングもコーチングも含め、本来のいのちを尊び教育することではじめて教育の真価がでてきます。それを私は人々をファシリテーションするともいい、一円調和するとも言います。私のファシリテーターの定義はその目的が明確なのです。

もう随分長いこと既存の教育に刷り込まれている人は、教育とは何かによってさせられるものだと信じ込んでいます。自分から主体になって学ぶことを忘れていたりします。お互いの慾が絡まり合って真実から目をそらさせられたのかもしれません。染まってしまうとなかなか自分が染まったことに気づかなくなるのです。

そういうものを体験と気付きによって思い出させ、本来、何のために誰のために学ぶのか、社會を仕合せにするのは一体誰なのか、真実と実践と伝道によって平和を広げていきたいと思います。

本質を見失わずに、現実の中の理念実践を展開していきたいと思います。