自然の畑に入り、一年のめぐりを静かに振り返っていると老子に共感を覚えます。色々と余計なことをしたなと反省ばかりです。そして改めて余計なことをしないというのは何か、その余計は何が余計かを見つめ直すのです。
当然ここでの余計は自我私欲のことです。
人間は一人一人が自分のことを特別な存在だと思い込み、そのことから自我や私欲に目が曇っていきます。本来、自然は素直な存在ですがそれもわからなくなるほどに自分のことで一杯にしています。つまりは自分全ての私物化というものです。
そしてこれは自分の存在だけに限らず、自分の身の回りで発生することまで私物化していきますから思い通りにいかないことに対して大変なストレスを感じてしまうのです。起きた出来事に対して無為自然であるというのは人生を深く味わい昇華し、内省を続けては心身を練磨してはじめて為せるように思えます。
計算している時点で捉われている、頭で考えている時点で間違っているとはだれも思うことはないでしょう。自然は考えませんから素直ですが、人間が考えるのは自分の心配をしたいからかもしれません。
老子に「天は長く地は久し」があります。
「天は長く地が久し、天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以て、故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして而も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。其の無私なるを以てに非ずや、故に能くその私を成す。」
意訳ですが、(天地が悠久なのは無理に自分を生かそうとする意識がないから悠久なのである。同じく聖人も、自分自身のことなどは後にしてまるで無我の境地である。だからこそ自然のように渾然一体となった自分が生きているのです。)となります。
これは自分自分と自分のことばかりを思い悩み、天地自然から離れてしまってはとても自然のようには悠久にはならないといっています。人間は自分を中心に種を思い、自分を中心に周りを考えます。しかし天地は天地を中心に動いていますから、無為自然にその理に従い丸ごとの自分を活かすのでしょう。
他人を思いやりなさいや、他人に真心を盡しなさい、隣人を愛しなさい、相手を自分だと思って大切にしなさい、自分を犠牲にしてまでも信を貫きなさい、これらの言葉は何の教訓かということです。
余計なことをしないようにというのは、その余計を如何に省くかにかかっています。人生の中で3つ子の魂の頃から次第に付きまとう自我が人生をつくりあげていきます。その自我の御蔭で修身があり、その自我の御蔭で人間は考えるようになりました。
ただし、天地自然の中でそれを合わせようとするところに真実を悟る妙味もあります。何が余計か、その余計を見つめて日々に精進していきたいと思います。