先日、自然養鶏の烏骨鶏を観ていて気付いたことがありました。烏骨鶏や生き物たちは一緒に生活をします。餌を食べるのも、移動するのも眠るのも、そして卵も交代で協力をして温めます。一緒にいることを大事にして、離れることを嫌います。それは一緒にいる方が生き残れるからです。しかしそこにもう一つの大切な目的が潜んでいることに気づくのです。
それは何か、生きるという意味です。
本来生きるというのは苦しいものです、だからこそ楽しいことがでてきます。生と死というものは、死があるから生を知り、生があるから死を知ります。もしも世の中にどちらかしかないのならそこに真の生を知ることもありません。
これと同じように、苦楽というものも両方あるから真の楽を知るのです。そして苦楽を共にすることができたことで真楽も一緒にすることができる、それはつまり人生を実感することができるのです。
一緒に生きるということは、人生を生きている実感が持てたということです。如何に家族や仲間の存在が大切かというのは、一緒であることが何よりも幸福感に満たされるからです。
どんな生き物も一緒に暮らしていきます。それは自然がともにあるように、地球とともににともにあるように、太陽や月とともにあるように、一緒にいるときに実感するのがしあわせです。
もしも能力や効率だけを優先するとどうでしょうか、先ほどの烏骨鶏では養鶏場で狭い柵の中で何羽も詰め込まれ卵を産ませるだけの存在に変わってしまいます。もしも機械のように生き物を扱えば大量生産大量消費が優先され効率を重視し、生きるとは単にものをつくればいいということになってしまいます。
しかしそこに仕合せがないのなら何のために産まれてきたのかになるのです。極端な言い方をすれば製造できないのならば要らないとなるのではないかと思うのです。本来、人間は憲法にも保障されているように幸せになる権利があります。
しかし実際はその幸せよりも経済を優先し、人をまるで何かのものや道具のように扱ってはいないでしょうか。一緒に繋がり結ばれていた絆を分断し、孤立させ製造マシーンのように変えていく教育が果たして一人一人の幸せを保障しているようには私には感じられないのです。
自然と名のつくものは、常に一緒にいることを尊びます。言い換えれば結束力です。結ばれて束になればどんなものに克てる力があるという意味です。どのような社會を子どもの遺していきたいか、それは大人の生き方にかかっています。
自分自身の意識を変革し、一緒にいる仕合せ、一緒である豊かさ、つまり生きる楽しさを味わってこそ人生を生き切ったと実感できる子どもが憧れるような大人ではないでしょうか。
今一度、自分の働き方から見直していき、助け合いの真心を育てたいと思います。