「情けは人のためならず」という諺があります。
本来は「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」で親切は必ずお互いに善いことになっていくという意味ですが今ではそうは使われなくなっています。特に今では、情けをかけるとその人のためにならない、情けを仇で返されるなどというように誤解されています。これは情けというものを正しく理解していないからそう感じるのではないかと私は思います。
そもそも情けというものは、自我欲から出てくるものではなく真心から出てくる親切心のことです。これはまるで親心のようで、親は子どもに対して見返りを求めず無償の愛で真心を盡します。これは自然界も同じく、産まれた子どもを自身を削りながら大切に育てていきます。そしてこれは見守る心とも同じです。
それほど情けは見返りを求めるものではなく与え続けるものです。自分の中で知らず知らずのうちに与えるものが求めるものになっていくのは自我や欲が入り混じってくるからです。それでは善いことが悪いことに転じてしまいます。
本来は、善いことを福に転じていけば至誠になります。同じように親切を御蔭様に転じていけば真心になります。しかし自然にそれができるようになるには自他一体になるほどに自他に正直である心を磨いていくしかありません。そしてここには依存と自立の関係もまたあります。情けはもちろん大切なのですが、自他に素直に謙虚になれないならその情けがかえって欲を助長する依存関係になってしまうからです。
実際に困っている人を助けることは尊いことです。情けが面倒だということになれば助け合わなくなりますから本末転倒です。だからこそ御蔭様の心で、「お互いに天から頂いている福を分けただけ」というすっきりと明るい関係を築くことでお互い様にしていくことが大切なのでしょう。
自分が見守られているから同じように誰かを見守る、自分がいつも助けていただいているから同じように誰かを助ける。自分が体験したのだからその体験を誰かの役に立てていくことが「親切」の定義なのです。そう思えば謙虚に素直に自分のいただいている感謝の心を他人にも循環していくことが真の情けになるように思います。
そして人情の学びは、他人だけではなく自分も大切にする心です。畢竟、人はもっとも身近にいる自分自身の心に正直で素直でないと他の誰とも正直で素直な関係を築けないのです。
社會の中で生活するもの同士、お互い様の心で目の前の人は明日の私、周りの人たちはみんな未来の私と思って親切をさせていただける機会とご縁に感謝していきたいと思います。
いつも満たされないから満たすような傲慢な感覚ではなく、いつも満たされているからこそ周りも満たすような謙虚な感覚、利己ではなく利他、つまりは自我や欲を満たすための親切ではなく、本来の意味の誠と真心の親切を実践していきたいと思います。