今の時代は正解を求める人が多いように思います、小さな頃から教育によって正解があると思い込んでしまうことで刷り込まれてしまうのかもしれません。
正解があると思うから完璧になることを求めたり、どうしても正解に対して減点法で物事を捉えてしまいます。つまり何が答えなのかを探ってしまい、答えがあっていると思えば安心し答えが分からないから焦るのです。
例えば、お医者さんが患者さんを手術はできても心を寄り添わずに手術して病気は治るのかという問いです。手術は問題なく正解通りにやったといったってそれでいいわけではありません。病気になっているのだからその病気に寄り添い、そのうえで手術するのですが患者さんは医者が正解通りであることは求めていません。それよりも心を通わす正直な関係であることを望むのです。
普段の仕事一つとってもそうです。仕事に正解があったとしてその段取り通りにきちんとできたから正解であるわけではありません。もちろんミスなくその仕事は段取りよくできたかもしれませんが、相手がいるのが仕事ですから相手に心を寄り添い思いやり誠実にやったかどうかは段取りとは関係ありませんから仕事は正解だったとしてもそれが正直であったかどうは別なのです。
正解よりも正直であるということは何よりも大切です。
それは頭で考えて仕事するのが先か、心を寄り添い仕事をするのが先かという優先順位の問題になります。人間は頭で考えて仕事をした後に心を入れることはできません。私たちも一円対話というのをする前に、心を整える内省をしますがいくら頭で内省したと思っていてもそれは内省ではありません。頭で正解だという刷り込みを持つ時点で心の優先順位が下がってしまうのです。
そんなことをするとせっかく真心や思いやり、正直になった自分をいちいち頭で正解にしてしまおうとすることで大事なことが失われてしまいます。合っているのだけれどなぜか上手くいかない、正解なはずなのになぜかおかしいという感覚に陥ります。これでは大切なご縁も機会も見失ってしまうことになります。
いちいち正解にしないと気が済まないのは、考え方の中に次回は間違えたくないという観念があるからかもしれません。しかし人生を生きて観る中で実感するのは正解にして間違わないことよりも、正直にやって誠実に取り組むことの方が本質的には間違っていないのではないかと私は思います。
なぜなら人は誰しも自分が体験したことが誰かのお役に立つようにできているからです。自分が体験したことを深く味わい、その体験したものを乗り越えたり同じ体験をしよう、もしくはしている人と一緒に乗り越えようと心を寄り添うのならばそれは必ず誰かのお役に立っています。
変に頭で考えてお役に立ったかどうかを正解を求めて思い込むよりも、心を寄り添い体験したことをそのままに伝えて一緒に助け合った方が本当の安心が得られるからです。人は安心したいから頭で考えるのでしょうが、頭で考えてばかりだから不安になるのです。正解を聞いて安心するという悪循環は、これはやはり「正直」で抜けるしかないと私は思います。もともと安心している人はみんな正直です、安心しているから頭で考えずに心が定まっています。そして安心すると信じることができます。
自分自身が安心したいから正解を求めるのか、それともそもそも安心しているから正直にいるのかではその生き方が違ってきます。みんな生きていたら正解が無数にあり、どの正解も間違いであることだってあります。
その人一人一人の人生の中に正解があるのではなく、そこには正直があるだけです。せっかく産まれてきたのだから何か必ず体験したいことがあるのが人間ですから、知識を先にいれて体験しなくてもいいという不自然な道理はないように思います。知識を先にいれて正解を求めるのをどこかでやめて正直に生きて誰かの役に立てる喜びに安心して生きる生き方を子どもたちに譲っていきたいと思います。