善い人~あるがままにありのままに~

人間が自信を持つというのは自分らしく生きることです。しかし自分らしく生きることをしないで都合よく合わせているとどんどん人は自信がなくなっていきます。

昨年、「アナと雪の女王」という映画が世界で大ヒットしました。この映画を観ているとそこに自立のテーマが入っているように感じて、世の中の人たちがみんな自分らしく生きたいと熱望していることを改めて実感しました。

その雪の女王が歌う歌詞のサビの中で「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの、、ありのままで空へ風にのって、ありのままで飛び出してみるの、、これでいいの自分を好きになって、これでいいの自分を信じて」とあります。

これは自分は都合のいい人では生きない、みんなの評価に合わせた自分ではなく自分らしくあるがままで生きるんだという強い意志が入っている歌詞です。

人はみんな自分らしく生きないことで自信をなくしています。周りからいい人と言われ周りから嫌われることを恐れて本当の自分を隠し、本音や本心を出すことをしなくなっていきます。

そんなことをするとどうせ反抗されるだろう、反発されるだろうと、周りを見渡し我慢をしては自分らしくいることを自分自身が否定しているのです。そういう抑圧の中で生きていくならば、逆に周りへの依存心が強くなり不自由の中で得ている偽りの自由の中で自分を埋没させ押し殺して生きてしまうことになります。

全ての生き物は自然に発達します。その発達は常に自立することを求めますから如何にあるがままの自分の姿で周りと共生し仕合せになるかは本能が望んでいるのです。それを我慢するというのは、まるで魂の生長を抑止することに似ています。

魂を磨き、魂を高めていくためにも、あるがままの自分に自信をもってこの現実の世の中で自分を生き切っていくことがいいように私は思います。人間社會は自然界と同じようにそれぞれが与えられた天命に生きることで、はじめて福世かな社會の一員として自分を自立させることができます。

もちろん人はみんな誰しも人から嫌われたくはありません、しかしそのことを優先し一番身近な自分から嫌われたならもう信じることができなくなるものです。一番身近な自分を守ってあげられるのは自分しかありません。それは臆病になることではなく、思い切って本心のままに自分のままにオープンに勇気を出して生きていくことです。自分の生き方が誰かの勇気になるという言葉は、自分らしく生きている人を見てはじめて実感できるものです。人はみんなオープンでいたいと心の中では願っています、言い換えれば自分の周りを信じたいのです。

世間を信じない世界ではなく、世間は信じられる世界に生きたいと願うのはそもそもいのちはいただいているものだからです。自分がオープンでいること、自分があるがままにありのままでいることは周りを信頼して生きていこうと覚悟と決心した清々しい姿です。

本当の自信とは、周りを信じる自分に出会ったときに持てるものなのかもしれません。

最後にその歌詞の中にはこう書かれています。

「どこまでやれるか自分を試したいの、そうよ変わるのよわたし
~光あびながら歩きだそう、少しも寒くないわ」

自分らしく生きることが子どもたちの勇気や自信になるのだから、周囲に迎合するような都合のよい人ではなく、周りを信頼して周りを活かすような本当に善い人になるように自分自らを磨くことを忘れずに日々に精進していきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

自然の営みに合わせる

昨日、自然農で育ち収穫し脱穀した稲を籾摺りして炊いた玄米を食べました。噛めば噛むほどに深い味がし、御米が育つ場・間・和を優先してじっくりと見守られ見守った御米は感慨も一入、また格別でした。

そしてその時、食べるというのは実は大変有難い丹精丸ごとを食べているのではないかと実感しました。

私たちは便利さを追求しているうちに食べるという行為でさえ、単なる空腹を満たすようなものになってしまっていますが本来は食べるという営みこそが、生き活かされている証拠であるのです。この「食が営み」という言葉を何度も聴いたつもりでいましたが、昨日一年間の御米の見守りを振り返りながらはじめて「ああ長い時間を経て得たこの出会いの瞬間こそが営みであった」と深く実感しました。

人生の目的は結果ではなく経過であることは誰もが分かっています。しかし、結果さえよければと結果だけを追い求めるのが人生の目的になれば暮らしそのものを味わったりするよりも悩み煩わしいことばかりに心を奪われ意識が囚われてしまうものです。

しかし丸ごとの今を受け容れ、時間をかけて丹精を籠めて全てを善いことにして楽しんでいく日々を過ごしていけば結果が自分の思い通りでなくても、自分の思っている以上の出来事が起きているのを知って感謝の心が育っていきます。

自分の思い通りにいくかどうかばかりを皆追い求めますが、本来追い求めるものは思っている以上の奇跡や感謝に新たに出会うことだと思います。

長い年月ずっと念じ続けて思い続けて信じていれば、たくさんの御縁に恵まれそのことから事が次第に為されていきます。素直に謙虚にさえ歩んでいけば、自ずから道が開けて周りの助けによって事は”なる”のです。

本来、じっくりと時間をかけるのは自然が四季を循じるように自然が自浄していくように自然に任せて取り組んでいくものです。思い通りにいかないのは人間に合わせようとするからです。人間に合わせるのではなく、自然の流れに沿い従い応じて任せていきながらその中で精いっぱいの自分の丹精と真心を使うことではないかと思います。

地球上に於いては”いのち”はすべて等しいものであるということを自明します。人間だけが特別であるという傲慢な気持ちを少し我慢さえすればこの世はまるで楽園のようです。齢を経るとともに、人々の囚われている自我の刷り込みを何とかして取り除いてあげたい気持ちは減るどころか益々高まってきています。

今回、取り組んだ自然の実践ではまだまだ技術は未熟ですが自然の営みに合わせるその真理は少しだけ心身に染み込んできたように思います。じっくりとゆっくりとしたいのちに合わせて有難い機会と実践の恩恵に感謝しつつ、その気付きを子どもたちの未来の社會に還元していきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

ライフワークバランス~人生の生き様~

ライフワークバランスという言葉があります。しかしこれを誤解して使っている人が多いように思います。ライフとワークを分けてバランスを取ることはできません。それはライフというものは人生のことだからです。

世間ではこのライフワークに対して、ライスワーク(飯を食べるため)と、ライクワーク(好きなことをする)、そしてライフワーク(人生をよりよく生きる)みたいな使い分けをしています。

確かに今の時代は主体性を欠いてしまい積極的に主人公としての自分を持つことができないと、その状況や環境によって自分の働き方のようなものをもってしまいます。当たり前に毎日仕事をしますがそれがその人の人生を次第に決定してしまいます。

太古の昔、仕事という意識ががない時代、人は生きることそのものを心底愉しみました。それは動物たちや植物たち昆虫などのように、天からいただいたいのちを真摯に燃焼して自然体に生きてきました。自分が日々に感じるすべてはそのままの人生そのものだったのです。

それを人生と別の出来事のように仕事を分けたり、立場によって自分を使い分けたりして偏った自分を持ってしまったことでライフワークの様々なことが中途半端になってきたのです。よく働き方について今は議論されていますが、どんな働き方をしているかどうかではなくどんな人生を歩んでいるかで議論していくのが本質的な働き方なはずです。それは働く自分の生き様ともいうべきものです。

相手に合わせて自分を変えたり、立場によって自分を使い分けたり、常識に従って自分を決めたりと自分で自分を誤魔化して周りに合わせてばかりいると本来の自分の人生の実感が持てなくなってきます。

どんな相手にも真心を籠めたり、立場ではなく使命感として取り組んだり、自分に正直に実践を怠らないと決心してはじめて自分の人生を自分の足で歩んでいる実感を持つことができるのでしょう。

ライフワークバランスとは、「人生の生き様」と訳してもいいと思います。

人生の生き様が悪いと思うのなら、そこを直し自然体になるように様々な悪環境を取り除き刷り込みを払しょくしていくことです。生き方と働き方の一致とは、シンプルに言えば「丸ごと人生そのものにする」ということです。

常にどんなこともすべて自分の人生そのものだと思えるか、天から頂いた有難いいのちをどのように使っていくのかを決めるのも自分次第です。かんながらの道の中で真善美を盡すあるがままのいのちの生き様を感謝のままに時に刻んでいきたいと思います。

福楽の実力

人は共感をすることで人格を磨いていくことができます。その共感の本は、人は誰しもが何らかの苦しみを持っているということへの自覚です。自分か相手かではなく、相手も自分も同じだと思えることの中に共感力は育まれます。

そしてその共感が高まるとき、ひょっとしたら目の前で苦しんでいるこの人は私だったもしれないと実感するのです。自他が一体になる過程の中に、どれだけ他人の苦しみに寄り添いそれを自分のものとしそれをどうやったら和らげることができるだろうかという実践の積み重ねによって人は「救い」という技術を持つように思います。

例えば、「逆算する」という技術があるとします。タイミングを計り、その人にとってどのタイミングが最も良いのかは共感によって見極められるものです。これも心の技術とも言えます。しかしこの心の技術は簡単に身につくものではなく、いつも誰かのために自分が大変であっても自分を気にせずに相手を思いやり行動して実践をし尽した分だけ高まるものです。

営業でいえば、お客様のためにお客様に共感し何とかしてあげたいという発露から自分を忘れて真摯に親切に取り組んだときにはじめて自分を活かす方法を自覚します。その方法に逆算という発想が生まれ、それを自分の技術として体得できるのです。

これは単に頭で考えて段取りを逆算するというようなものではなく、心も合わさり逆算が澄まされどのタイミングがその人にとって最善であるかを自然に自覚するのです。これは苦しみに寄り添っているからこそできるものです。

仏教の教えの中に「抜苦与楽」(ばっくよらく)というものがあります。

これは仏や菩薩が衆生の苦しみを抜いて福楽を与えることで抜苦(苦を抜く)とは、悲をあらわし、与楽(楽を与える)とは、慈をあらわすと言われます。

困っている人を見ては何とかしてあげたい、大変な目にあっている人をいれば助けてあげたい、そういう思いやりを形にしていける実績こそが実力といえるものです。

福楽の実力があれば一人でも多くの人たちを救えます。その福楽の実力をつける方法は、思いやりの実践のみです。思いやりの実践は生き方の集積ですから、自分の生き方を仕事も同じく一体にして働き方を変えてこそ自在になっていくのでしょう。

そのためにもまずは共感しなくなってしまった自分の刷り込みを取り払うことからはじめていくことだと思います。自分のことが大変なとき、きっと周りも大変だろうと思いやる心や、相手をみてはきっと何か自分にわからないような大変なことがあるのだろうと思いやる心、そうやって自分の尺度を越えて相手を思いやる習慣を持つことで次第に刷り込みは取り除かれていくものです。

出会いが人を変えていきますから、一人でも多くの人たちに貢献できる人物に自分が為っていくことが何よりも世のため人のためです。日々の精進を噛み締め踏み固めながら福楽の実力を磨いていきたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

朝の生き方~生活リズム~

生き物にはリズムがあります、それを生活リズムとも呼びます。これは動物でも人間でも全ての生き物は、地球の鼓動や呼吸と同じように自分たちもそれを行っています。

例えば、朝になれば鳥が鳴きはじめ活動をはじめるようにいつも同じリズムで活動します。ベランダに飛来してくる雀もいつも同じ時間にやってきては朝食をとり、その後は縄張りのチェックや他の鳥と遊びコミュニケーションをとっています。

これは鳥にも限らず、人間も一定の生活リズムで中心を持っていて多生のズレは修正できますが大きなズレになると体調や精神が不安定になって病気になったりするのです。

この生活リズムのことを別の言い方では生活習慣といいます。

その人がどんな生活習慣を持っているかがつまり生活リズムがどうなっているかということなのです。これが現代人は、自然から離れた生活をしていく中で頭で時計ばかりをみて時間に合わせ過ぎているうちに自分の生活が乱れてしまっているといいます。

この乱れの原因は、食事や睡眠、運動、感覚などから影響を受けています。なぜかいつもバランスが悪くて集中できない人や、不自然な姿が気になる人はその生活習慣を立て直すことからやらないと本に戻れません。

生活習慣のリハビリをし生活リズムを立て直すことから行うことで心身が調和しバランスの善い暮らし、つまりは充実した日々を過ごすことができるように思います。

そのためには「朝練」を行うことが善いと私は実感しています。朝同じ時間に起きること、そして運動をし、その後、お腹がすくので朝食を食べることです。朝の起きる時間にこの睡眠、運動、食事、呼吸、初心、感覚を澄ませることで生活リズムをスタートできます。

リズムというのは、最初が肝心で何処を中心にしどこから始まるかで終わりが観えてきます。その始まりがズレている人ではどんなに途中で修正しても終わりが観えません。見通しというのは、そのはじまりのリズムを持っていてできるものですから一日の朝にしっかりと立て直しておけばその日のリズムはつかめるのです。

朝寝坊をしたり朝食を抜いたりは生活リズムが乱れる根本原因になります。

子どもたちは大人たちの生活リズムのせいで同じリズムを強要されて子ども自身が色々な発達に悪影響が出ています。一日一日の生活の積み重ねが一年でありそれが一生になるのが人生です。

大人の悪影響のモデルにならないように、子ども第一主義の理念の実践としての「朝の生き方」を大切に生活リズムを積み重ねていきたいと思います。

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。