善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。