昔から日本には八百万の神々という思想があります。これは万物の全てには神様が宿っているという意味です。つまりすべては丸ごと神様であるという考え方です。
これは西洋のように人間と神とを分けて考えるのではなく、自然界の仕組みのように人間を中心にするのではなくすべて丸ごとを中心にするという考え方です。
しかしそれを感じる力を持つというのはモノやコトの中に真心を感じる感性がなければそれを実感することはできません。つまりは江戸時代の国文学者の本居宣長が言うように「もののあはれ」を直感できるかということによるのです。
「もののあはれ」とは何か、本居宣長はこう言います。
「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心で味わい、そのあらゆるの事の心を自分の真心でありのままに知る。これが事の心を知るということであり物の心を知るをいうことである。物のあはれを知るということである。そしてさらに詳しく解釈するならば、ありのままに知るのは物の心、事の心であり、それらを明らかに知ってその事のあるがままのかたちに動かされるままに感じられるものが”もののあはれ”なのである。」
この「あはれ」というのは、哀しみのことを言うのではなくありとあらゆることを直感する感性のことであろうと思います。自他一体の時に実感する、繋がりや絆、そのご縁を尊重するときに自分が渾然一体になっているものの変化と同化しているときに味わっている感覚のことです。
なぜ「もったいない」という言葉があるのかは、そこには心があるからです。心があるからこそ粗末にしない、心があるからこそ大事にする、そのモノもコトにも、確かな心が関わりいのちが存在しているからこそ大切にしていこうとする思想です。
今の時代はありあまるほどに存在するモノやコトに囲まれています。一歩外に出れば、そのモノやコトの情報が氾濫し、内に戻ればそれを持ち帰ってしまいます。穢れを祓い清めるというのは、心を亡くしてしまったものを取り戻し、それをキチンと整理整頓し清潔にシンプルにしておくということなのでしょう。
自分の心と感情を澄ましていくというのは、「もののあはれ」を感じられる状態にいつも自分を維持していくことだと思います。それはモノやコトをどれだけ大切にしているかですし、内省によってどれだけ丁寧に暮らしていくかということでもあります。
何でも雑にしていたらそのうち心は亡くなって、モノだけではなくコト、そしてヒトやタカラまで失っていきます。沢山いただき恵まれているものに感謝の心がなくなってしまったら、それは何よりも悲しく不幸なことです。
常に「もののあはれ」を感じる心は、心が清く明るいままで維持されるようにその汚れをきれいに払しょくし洗い流すような実践が必要になるように思います。日々に穢れなくさっぱりとしている自分かどうかを確かめ、余計な雑念に大切な理念や初心を忘れないように平常心を磨いていきたいと思います。
あの美しい自然、今朝の綺麗な朝の光のようにいつも心の原点回帰をしていきたいと思います。