古代ギリシャの哲学者にソクラテス(紀元前470/469-399)がいます。高弟のプラトン(前427-347)らと繰り広げた対話のことを「ソクラテス的対話」(ダイアログ)といいます。つまりは「対話」についてはっきりと定義されます。
もともとソクラテスは、文字に書き残すことで大切なことが伝わらなくなると考えました。プラトン自身も文字では伝わらないことを知りつつも敢えてソクラテスの言葉を文字に起こしました。
そのソクラテスが何よりも重要視したのは「問い」ということです。言い換えれば「自問自答」のことです。周りが何かを言うことに対して答えを求めるのではなく、「対話」によってはじめて自分自身の中の答えに導いていくこと。
つまりは気づきや自覚によって、その意味を掴んでいくことの大切さを説きました。
もともと学問というものは、学校の勉強のように誰かが持っている答えを探し当てることではなく、自分自身が経験したことを自ら苦労して掴んでいくときに「問う」という学びが得られます。
私はよく「わかった気にならない」と話しますが、これは分かるということは苦労してはじめて理解できるということを言うからです。頭ですぐに分かった気になる人は分かるということは学校の勉強のように知識を持つことだと勘違いします。
そんなことを分かってみても、現実の世界は何も変わることはありません。物知りになったとしても、それは議論や討論はできても現実には気づくことができないのです。
問いというのは、気づきのことです。
その問いを持ちつつ、行動し実践し努力苦労していくことで次第に気づきが自分のものになっていきます。刻苦勉励の精進によって体験が自分のものになったとき、はじめて「わかった」と思えばいいのです。
これらの自分自身との対話は、如何に自分自身が素直になっているかによります。その自我から離れた状態を人々の間にどう引き出すのかは、調和者(ファシリテーター)である人物の信念や哲学といった生き方が影響します。
そういう気づきこそが何よりも大切であると、このソクラテスとプラトンの関係からも読み取れますし、論語の中の孔子やその弟子たちとの対話からも感じ取れます。
日本語ではこれを「衆知を集める」としましたが、私たちの行う一円対話はこれを引き出していくものです。さらに実践を高めて、世の中に真理を広げていきたいと思います。