昨年は、社業を通してなんでも一人でやるのではなくみんなで協力しシャッフルすることから大切なことを学び直しました。
何でも一人でできる社会は、なんでも自分の都合で物事を進めることができる便利な社会です。人は自分の都合でできることを良しとして、自分の好き勝手にできることを自由だと勘違いしてしまうと不便さというものは排除するものとなってしまいます。
しかしこの不便さというのは、そこに誰かへの思いやりがあったり自分が誰かのために義務を甘受するようなやさしさがあるのです。
循環型社會とは何か、それを昨年は思い知りました。
それは誰かの都合で動かない社會です。それは家族がみんなで協力して助け合う社會です。言い換えれば、全てを必要とし全てを活かしている社會です。そしてそれは不便の中、面倒の中にこそあるのです。
昨年、皆で取り組む実践の中で便利に一人で簡単に進めるよりも、たとえ不便でも面倒でも一緒にやる方が周りのためになっていることを実感しました。誰か一人だけが頑張るのではなく、みんなで力を合わせることでパワーもエネルギーもすべて循環します。
今の時代はパワーやエネルギーを一つのためだけに使い切りますが、しかし江戸時代などはみんなでそれを振り分けて役割分担をして活かし切りました。この使い切るという発想が自分の都合で起こり、この活かし切るという発想が自他一体で行われているのはすぐに自明します。
そもそも循環というものは、周りを思いやっているかということです。自分だけが良ければいいでもなく、自分がやっていればいいではなく、「一緒にやる」といった中庸の場所で物事に取り組むことができているかということです。
一緒にというのは、運命共同体です。私の言葉では自他一体になっているということです。相手が自分であり、自分は相手なのです。自分さえよければいいという考え方が社會を便利さに走らせ、周りを思いやろうとする社會こそが不便であっても一緒にやろうと思える社會を創造するのです。要はどこまで相手や周りのことを思いやって一緒にと思っているかです。自分の成長だけを思う人と、周りの成長まで思いやる人では同じ動きをしていてもエネルギーは循環するかしないかの差が産まれるのです。
子どもにどちらの社會を遺してあげたいか、それはみんな心では分かっているはずです。だからといってその便利さの恩恵を受けている今の文明や時代を否定する気はなく、むしろ有難いのだからもう一段場を高めてその中でも「一緒にどこまで為れるか」が今に生きる私たちの大切な課題なのではないかと私は思うのです。
循環型社會とは、ただ環境をそうすればいいというわけではなく、其処に住まい、此処に生きる全てのいのちと運命共同体になるということです。つまりは「一緒に生きよう」とすることです。
視野を広くして悠久の歴史に今を照らせば、今までもずっとみんなで一緒に地球の中で生きぬいてきました。苦しいときもつらいときも、楽しいときも悲しいときもいつも周りをみては同じいのちを慈しみ愛して生きてきました。
視野を狭くするから自分さえよければと思うのでしょうが、連綿と続いて継承されてきたいのちの姿かたちが今の「自分たち」なのだから過去が悠久の長さがあったように、未来をも悠久の長さで考えないといけません。
今年はさらにすべてを分けずにもう一歩深く踏み込んでみたいと思っています。これは循環が単に共生という言葉ではなく、「一緒」の方が循環の本質に近いのではないかと感じているからです。いのちと生活ということがどのような実践と環境なのか、それをこの時代、今此処ではどうなのかを突き詰めてみたいからです。
一緒に行うことの真価を、全ての機会を活かし切りクルーたちと一緒に深め、志のままに挑戦し試してみたいと思います。