生活圏

最近、ベランダには雀だけではなくヒヨドリが飛来してきます。今までは気づきませんでしたが、鳴き声と様子を観察していてはじめてその鳥がヒヨドリであることに気づきました。

体験して観て不思議に思ったことを深めてみると、それは書物から学ぶのではなくそのものから学べます。

雀をはじめ、ツバメやヒヨドリはかつては人間が一緒に生活をする仲間でした。人間にとって害のある虫を食べてくれる存在で、庭木に実をつける木々を植えては季節の風物詩のようになっていました。

今では都市化された場所でやってくれば、糞をはじめ鳴き声などが煩わしいと嫌がられたり、野菜などを荒らす存在として害鳥のように扱われています。人間の都合で、害や益を決めてはそのものの存在を理解しなくなったのは寂しいものです。

以前、青虫とモンシロチョウの話で青虫は害虫でモンシロチョウは益虫というような話を聞いた時に人間の浅はかさを感じたことがあります。もともとは同じ虫であるのに、人間の都合で全部仕分けられてしまうということ。

本来の存在の意味や価値を人間の都合で裁いていくということの傲慢さを感じます。

ヒヨドリからしてみれば、急に変わってしまったのは人間の方です。他にもツバメや雀、また馬も牛もかつては身近に居て大切に仲良く一緒に暮らしてきたのに突如として急変して乱暴に扱いだしたのは今の私たちの暮らしが変わってしまったからです。

古来から、自分たちの善いところを活かしあい悪いところを補って共生していくという自然の智慧が便利さや人間都合によって失われていったのでしょう。

人間は自分が中心か、全体の中の自分かで考え方が異なるものです。たとえば、自分の部屋を家と思うか、生活圏で一緒に暮らしている範囲を家とするかではそのものへの思いやりが変わっていくものです。自分さえよければいいという発想か、自他は一体なのだから周りを思いやっているのかではその生き方や考え方そのものが異なるのです。

本来、自分だけで生きられるわけではなく周りがあって自分が在るのが本来の社會ですから社會のことを狭めてしまえばお互いに自分の都合だけを押し付け合うような排他排除の貧しい社會にしてしまいます。

そうではなく、周りに生きているものすべては繋がっているのだからその生活を守ってあげたいと思いやり受け容れていけば協調していく社會になります。

結局は、周りにいる生き物たちが絶滅していくのはすべて人間のみの社會が優先されてきたからです。周りの動物たちや生き物たちと一緒に暮らしてきた今までの生活をガラリと変えてしまったのはちょっと先の先祖たちです。

もう一度、今の環境の中でも工夫して共に暮らしていけないか、それは自分たちの生き方を見直すキッカケにもなります。日々は学びの連続ですから機会を活かして、環境を工夫してみたいと思います。