人は自分の時間の使い方でその人の人生観が観えてきます、一度しかない人生を何に遣っているかは時間が証明します。時間とは何か、それが人生とも言えます、その時間にどれだけの意味と感謝を持つかでその質は変化していくように思います。
志を持ち実践し継続するという時間こそ、その人の天命に応じる生き方かもしれません。
自分の時間であるけれど、それは他人のための時間でもある。
そう考えることができるならば、その人はスケジュールというものを有意義に使えるように思えます。なぜなら人はみんなご縁で結ばれていて、そのご縁に感謝すればするほどに自分の時間は大切な誰かのために使いたいと願うようになるからです。不思議なことですが、自分の事ばかり考えて自分の時間ばかりを持つ人ほど時間を持て余してしまいます。いつも誰かの役に立ちたい、誰かのために力になりたい、だからこそ誰かのために成長したいと願う人は無限の時間を持っています。
論語に、「夫れ仁者は己立たんと欲して人を立て、己達っせんと欲して人を達す」(雍也第六の三十)があります。
これは弟子の子貢が孔子に人を救うことについて尋ねた質問への問答です。私の意訳と解釈ですが子貢は、人々を多くの災難から救い施し豊かにするのが真心の人ですかと尋ねます。すると孔子は、それができたら真心の人ではなく聖人だ、古代の聖帝の尭・舜ですらそれができなくて苦労されたのだ。
そしてここからが上記の有名な一文「己を立てようとして他人を立て、己達さんと欲して他人を達す」の意味ですが、真心の人は自分が立ちたいと願えば他人を同時に立て、自分が達したいと思えば同時に他人を立てる、つまり他人のことも自分のことのように思いやることができる、まるで自他一体なのだよと言います。
このことは、私のかんながらの道にも通じるものがあります。つまりは真心の実践とは自他を分けないということ、つまりは思いやるということです。逆説ですが、他人を立てることができる人だから自分で立つことができます、そして他人を達させることができる人だからこそ自分も達するのです。
私は自分のために成長したいのではなく、その他人の力になりたい、助けられる技術や仕組み、救えるための法則を学びたいと真摯に祈り探し深めつづけて歩んできました。するとその力は自分のために必要なのではなく、力になりたい誰かのために必要になるのです。自分が達したいと思う願いの本質は、相手があってのものだからこそ自他を達することができるのです。
人間は自分と他人とをどこかで選別しています。まさか目の前の人が自分だとは思わないものです。しかしよく考えてみると、自分とは何か、それは関わる人たちとの出会いに由って存在しているものであり、それによって変化していく存在です。
その自分という物は、単に自分と認識できる範囲の小さな自分ではなく世界丸ごと含まれた中にある自分という存在もあるのです。つまりは、自分とは相手であり相手が自分という世界のことです。
自分が助けたその人に由って同時に自分が助けられているという事実、自分が真心で実践したことが相手の真心に通じて同じ実践ができることも全ては自分というものの認識の別に由るのです。
人間には外見では同じようなことをしている人でも実際に実践するとその深さが異なることに気づきます。自他一体も、同時というのも、己というものの捉え方一つということなのでしょう。
自分の周りを仕合せにできる人は、自分も仕合せになる人です。
全てを真心と思いやりのために時間を遣え生きれる人が、常に己に克っている人ということなのでしょう。分けない実践、選ばない実践、全ての人を未来の自分だと思える実践を引き続き深めていきたいと思います。