日本には老舗と呼ばれる企業がまだたくさん残っています。それは理念を持ち、その理念を初心の高みで温故知新できる本質的な経営を実践する方々が沢山いるということでもあります。
伝統が残っているというのは、時代が変わっても大切にしているものがあるということでありそれはその時代に生きた人々が初心を忘れなかったという証明でもあります。世間では理念理念と言いながらも、実際は経営か理念かとそれを分けて語られていたり、もしくは理念理念と言いながらも経営に後付するような人たちが増えています。一気に拡大するか緩やかに長くやるかはその人の決断次第ですからそれは本人の選ぶところです。
しかし理念経営を思う時、本来は理念を優先し経営をするはずが、単に経営をするために理念を使おうでは本末転倒してしまう気がします。初心はあくまでも初心であり、初心を片時も忘れないでいてはじめて経営は正しいものになっていくように思うからです。
何百年も時代の篩にかけられて残るのは、いつも本物であり自然です。
それは自然界というものは、人工的に造ったものは脆く、自然に応じてできたものは永続しているからです。その永続の歴史の篩のことを伝統というのかもしれませんが、その伝統という言葉で私が好きな言霊があります。
「伝統が創造されるというのは、それが形を変化するということである。伝統を創り得るものはまた伝統を毀(こわ)し得るものでなければならぬ。」(三木清)
この方は昭和の哲学者で思想家ですが、伝統の創造とは伝統を毀すことであるという言い方をしました。この毀すというのは、単なる破壊のことではないことはすぐに分かります。壊すは物理的に破壊することを言い、そのものだった物を失うことを言います。しかしもう一つの毀すは、削ぎ落とす、削り落とす、私の言い方ではシンプルにするという言い方をします。
つまりは、伝統とは、時代の篩にかけてシンプルにする実践、つまりは磨き抜いていくということではないかと思うのです。
磨くというのは、そのものの徳を引き出していくことです。磨くことができることではじめてそのものの本質がより光りはじめます。より光るということは、時代の中でも光るということです。一体、何のためにやるのかを実行する人は夢を持つ人です。
夢に生きる人は初心を忘れることはなく、夢を持ち続けられる人は毀し続ける人だからです。
試練や苦労によって人生はそぎ落とされていき人格が高まっていきます。
毀すということは、自ら進んで苦労をするということかもしれません。
新たなメッセージを感じつつ、伝承が云わんとすることを真摯に学び直したいと思います。