世の中には光と闇があります、もしくは陰と陽という言葉を使います。光には光の特性(動)、闇には闇の特性(静)があります。これは表裏という関係ではなく、表裏のない同質のものです。
例えば、光があれば陰が発生します。光と陰があることでそのものは顕現します。宇宙に星がなければ宇宙を感じることはありませんし、宇宙がなければ星も見えません。お互いが存在し合うことではじめてそのものの存在が確認できるのです。つまりは光と闇や陰と陽ではなく光も闇も陰も陽も同質であるということです。
全てを十全に捉えるという観点があります。
それは光も水も空も風も土も同じものであるという考え方で全ては欠けているものは一つもないということです。私たちは物事を観察するときに、あるやないという見方をします。しかしあるとかないとか言っていると、十全であることがわからなくなってきます。
自分というものを中心にばかり物事を考えて観てはあるとかないとかを見分けていても、本来すべてを存在している宇宙自然の廻りのことなどは実感できなくなってしまうものです。欠けていないのであれば失っていないわけですから、なくなることがないという世界。
そういうやったことがゴミで消えるのではなく、それが巡っているだけであるという意識。あるかないかではなく、巡りゆくのだということを自覚するとき、人は初めて循環の理に触れ、自分がどう生きるべきかについて自問自答するように私には思えるのです。
自分が生きているうちのことだけを考えては欲を貪り、自分が死んでしまえば後は知らないというように無責任になってしまえば、巡っているいのちのことなどは考えなくなるのかもしれません。
人間はいのちある存在ですから、そのいのちは形を換えては様々なところを廻り巡ってまた戻ってきます。仏教の輪廻転生のように、いのちを殺しては食べてそれを排泄していく私たちのいのちもまた他の生きものを通じて地球の中を廻りつづけていきます。
いのちを粗末にするというのは、巡りを大切に考えないということです。そしてそれは分けて考えるからです。分けない実践というものは、自分を中心にばかり物事を考えずそもそも一つの存在なのだから自分の影響を自覚して生きるということです。
他人事にしない人生と言ってもいいし、自他一体にする人生と言ってもいいかもしれません。明日は我が身、あの人は未来の私であり過去の私だと思えるか、全てを自分事とできる思いやりの実践です。
光と闇があるように、人間もまた光と闇でできています。
十全円満そのものを分けさえしなければ人間ははじめて本物の人間となりうるということです。人間の持つ業の深さを沈み内省しつつ、いのちを輝かせて魂を磨いていきたいと思います。