人間はいつもの自分をどの高みで内省するかで気づきの度合いが異なるものです。気づいているようで気づいていないのも、気づきというものは素直さと比例するからのように思います。素直でないと反省もまた反省風になり、気づいても気づかず、直そうにも直せないということにもなるからです。
自分のことを正しく理解できるというのは、思い込みや刷り込みを取り払ってあるがままに物事が視えるということです。言い換えればそれが素直さなのですが、受け止めたくない事実がある場合や受け容れられない現実がある時はそれを湾曲してしまうものです。
気が付けば、やっているつもりになっている実践が多いのもまた事実です。如何に深く内省し、如何に深く気づき、如何に謙虚に行動するかはその人の人格の成熟や精神の研鑽によるもののように思います。
そしてそれを直すのに自戒があります。自戒とは、自らの癖を見抜き気を付けるための心掛けのようなものです。人間は欲や自我がありますから気が付けば怠惰に流されてしまう自分に対して主体的に自ら気づき自我欲よりも優先できるものを持とうとするものです。
しかし一人慎んでいないと気づかないうちに優先するものが入れ替わるのが人間ですから、その入れ替わった瞬間に気づけて改善できるかどうかが実力をつけるポイントのように思います。
先日、あるお寺を参拝しているときに慎むということの実践で興味深い文章に出会いました。この文章の作者は元善光寺の住職が作ったものと言われていますが自分が気が付けば慎んでいないときの事例が書かれているのではないかと実感したので紹介します。
「 高いつもりで低いのが教養 低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのが知識 浅いつもりで深いのが欲望
厚いつもりで薄いのが人情 薄いつもりで厚いのが面の皮
強いつもりで弱いのが根性 弱いつもりで強いのが自我
多いつもりで少ないのが分別 少ないつもりで多いのが無駄」
(元善光寺「つもり違い十ヶ条」より)
この十か条は人間として気を付けないといけない生き方を並べると、今の自分がどちらに傾いているかを内省するときの基準になります。これはこのまま並べてみればその意味が分かります、つまり「低い教養、高い気位、浅い知識、深い欲望、薄い人情、厚い面の皮、弱い根性、強い自我、少ない分別、多い無駄」ということです。
高慢・傲慢・不遜になってはならぬ、自分のみの価値観の世界に浸って陥ってはならぬと言い聞かせるのです。人は他人の話が聴けなくなると以上のような状態に陥るものです。素直に他人の意見を聴けるというのはそこに謙虚な生き方があります。
上記のことを逆さに書いてみると、「高い教養、低い気位、深い知識、浅い欲望、厚い人情、薄い面の皮、強い根性、弱い自我、多い分別、少ない無駄」です。つまりは人間として慎む姿が観えてきます。
人間は知れば知るほどに、知識が多ければ多くなっていくほどに慎まなくなっていくものです。教える立場の人たちは何よりも自戒する必要がある智慧が「慎む」という実践なのでしょう。
真の実力とは、精進により磨かれた人格の上に慎み抜かれて錬成された実践です。他人のことをとやかく言う前に知識ばかりを詰め込む前に、自分の生き方をよくよく見つめて内省していきたいと思います。