人間は物事のことをどれだけ深く掘り下げていくかで本質に近づいていくように思います。世の中の話をいつも鵜呑みにばかりしていたら、本当のことは分かりません。物事の意味を実践により咀嚼してはじめて自分のものになるのが本質ですから本質が理解できるということはどれだけ探求しているということです。
探求というのは、字の如く「求めて深める」ということです。つまりはそのものの本質を見極めようとする力であり、真理を知りたいと思う好奇心のようなものです。
私もどうも好奇心旺盛で、本当のことが知りたいとばかり思うようです。いくら本に書いてあっても、いくらそれが科学で証明されていると言われても、自分自身が自分の感覚で「探していたのはこれか」と納得するまでは諦めきれない性分のようです。
先日も、保田與重郎の著書に飛鳥の神奈備のことが書かれていて本当にそうかと自分で現地にまで調べていきます。その過程で、様々なご縁に導かれ新たな発見をし、なぜそれを調べたかったのかを竟には自覚自明するのです。
探求するというのは言い換えれば道を歩んでいくということです。自分の舌で咀嚼し、自分の胃で消化し、自分のモノにしていくということです。それには真理探究に対する強い熱意が必用のように思います。
偉い先生が言うのだからとか、誰もが知っている事実だからとか、未知なるものだからだと考えるのをやめてしまって無関心に流していたらいつまでも本質に近づくことができません。だからこそ、自分から分からないことをもっと本当のことが知りたいと知識欲を転じて智慧欲に換えていく必要があるように思います。
知識は簡単に便利にすぐに入ってきますが、智慧は入ってきません。智慧は具体的な行動と探求によって自分のものになっていくからです。以前、メンターに「距離に負けるな好奇心」という言葉をいただいたことがあります。
面倒だなや、大変そうだな、しんどそうだなと、いちいち何かをやる前にそんな気持ちに探究心が負けてしまっていたら何一つ自分のものにはならないということでしょう。
最後に論語にあります。
「子曰わく、憤せずんば啓せず。非せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり」と。
如何に真剣に物事に取り組むか、真剣であればあるほどに探究心は高まるのです。真面目そうになるのではなく、真面目であることは志事に如何に真剣に取り組むかということです。本当の真面目とは何か、本当の真剣とは何か、味わえる仕合せを周囲に自らの実践で伝えていきたいと思います。