一昨日から紹介している鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)には共感するものばかりです。王陽明はかつて「道統を継ぎ、絶学を紡ぐ」と言いましたが、師の教えを忠実に守り伝統を継承する志に子々孫々への思いやりや真心を感じます。
そういう理念を持つ組織だからこそ、その教え方も本質的であり実践的、体得体認することを重んじています。口伝の重みでも実感したことですが、口伝できるというのはその志を受け継ぐ心があってのことです。血肉に伝わっていくような関係の中にこそ、大切な原点や初心、その志や伝統は伝承できるのではないかと今でははっきりと思います。
今年は伝統文化や老舗から日本の職人文化を学び直そうと思っていましたが、その最初に鵤工舎のことを学べて有難く思います。
文章の中で修業について書かれているところが沢山あります。修養も修行も、その心構えのことでしょうが具体的な実践事例で「研ぐ」ということの意味が書かれているので紹介します。
「刃物というのは、なかなか研げないものや。砥石にぴったりし刃を当ててゆっくり擦ればいいだけだが、それができんのや。人間の身体というのは思いの通りには動かないんだな。・・・中略・・・言葉は常に後や。自分の身体が考えの通りには動かないことにまず気がつかなならん。だから修業するのや。言葉や考えが役に立たないことにも気がつかなならん。無心で研げるようになって初めて刃物が研げるようになる。じゃあ無心ってどういうもんかと考えるかもしらんが、刃物が研げたときや。答えは刃物や。」
西岡棟梁から学んだ刃物研ぎの本質が記されています。無心とは研げた時だといい、答えは刃物だといいます。これは仕事でも同じように思います、無心でできるときは自他一体になっているということでその答えは仕事そのものだということです。そしてこう続きます。
「苦労して、悩みながら研いでいるうちにある日、「おっ」と思うことがある。そうやって階段を上がっていくんだな。精神修業のようだが、そうじゃない。大工は体を作ることだ。頭や考えも体から生まれてくるんや。俺はそう思う。だから刃物を研がせる。」
体をつくることと言います。以前、メンターから「からだ」という字は肉体だけではなくそこには心や精神も入っていると聞いたことがあります。「からだ」で覚えるというのは実践で染み込み自分のものにするということでしょう。
「よく研げるようになれば、道具を使ってみたくなる。木を削ってみたくなる。穴を穿ってみたくなる。それが大工として最初や。切れない刃物で木を削らせたところで、辛いだけでうれしいことも気持ちがいいこともない。そんな心で仕事をしていてもいいものはできない。だから刃物を研げないやつには道具を持たせない方がいいんだ。手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。」
”手道具こそ体そのもの”とあります。仕事では何が手道具であるかということです、それが商品であり自分そのものでもあります。
最後にこうあります。
「嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。ほんとうを覚えるには時間がかかる。時間がかかるが一旦身に着いたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。・・・中略・・・上手になれば過去の自分の未熟さがわかる。それも上手になって初めてわかること。つまり、判断は常にその時の自分を超えないということや。刃物は自分の力量を表す鏡や。一心不乱に研ぐことによって、大工としての感覚と研ぎ澄まされた精神も養われるんやな」
”判断は常にその時の自分を超えない”とあります。今の自分の刷り込みを取り除くには、”からだ”で身につけろということです。言い換えれば一心不乱であるし、私の言葉だと全身全霊です。それだけの実践をどれだけ積んでいるかで本物や本質が磨かれるように思います。ここでの刃物とは人格に似ているように思います。何を研ぐのか、手道具とは何か、もう一度そのものの在り方から見直してみないといけません。
そして「技と人」の伝承とは、つまりは「口伝と体得」ではないかと改めて実感します。今の時代の人と技の教え方、学び方に対して刷り込みを見つめているととても大きな危機感を覚えます。子ども達には自学自悟、自分らしく自らを磨き上げていってほしいと思います。まだまだ職人文化や初心伝承を高めていきたいと思います。