先日から職人文化のことを書いていますが、そもそもどんな人間を育てようとしているのかというところが昨今の教育と異なることはすぐにわかります。技を伝えるということは、人を伝えるということです。
どんな人物がどのような生き様でどのような志事をしたか、後世の人たちに恥ずかしくないように一心不乱、全身全霊に取り組んだか、後の人がその心や精神をモデルにするような生き方をしたかが示されています。
常に大事なことはいい加減で雑なことをしないという心、言い換えればどの仕事にも心を入れているか覚悟はできているかという自問自答、自省自戒をしているかということのように思います。そこに技が磨かれたか、人が磨かれたかと問われるのです。
小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)に「器用」について書かれていますが、今の教育の刷り込みについて書かれているように思います。そこには器用について書かれています。
「今の世の中は器用を買う。要領よく速くこなすやつは価値があるんだ。それは企業や社会の考え方に合っているからや。価格の競争が当たり前の世界では、速く作ることが求められる。できは水準でいいのや。でき上がった品物の使用される期間も短いもんや。その期間だけ持つ、安い者を作るんやったら、それでいいんやろ。俺達、宮大工の造る建物は時間と闘わねばならん。それに勝って、自然の中で建ち続けるには、そんな要領のいいことではすまないんだ。千年の時間でものを考えたら、なにも急ぐことはない。じっくり確実に。そういうことは人間を作るのにも出るな。慌てて、急いで人間を作ろうと思っても無理や。急いで、即席で作ったら、人間だって無理が出るのと違うか。今の教育はそんなふうに見えるわ。」
確かに周りを見渡せば教育の方法はまるで即席で栽培するような育て方で便利に速く出荷できるものがビジネスで横行しています。社員教育にしても、新人教育にしても、そんなものまで省こうと派遣や契約社員など人事は常に即席であるかどうかが基準になってきています。時間をかけて手間暇などは流行ではなく、如何に簡単便利で能力の換えがきくかが経済でも価値があるかのように思い込みます。結局、そういう人間が求められているからそういう教育にもなるのでしょうが、そのことで「器用な人」ばかりができているのかもしれません。そして小川三夫さんも師匠の西岡常一さんも器用は損やといいます。
「思いを込めた仕事となったら、器用な子には難しいんだ。器用な人は耐えることが不得意なんだな。自分はできるし、できると思っているから器用にその方法を見つけ、ここでいいという線を読んでしまう。だからどうしても、耐えて耐えてもっと深いところまで行くということができ難いんだな。」
「よう西岡棟梁も言っていたな。『不器用の一心に勝る名人はない』と。身体や手というもんは言葉のようにはすぐには浸みこまんもんや。覚えるのにも時間がかかるが、手や身体に記憶させたことはそう簡単には忘れん。時間をかけて覚えることは何も悪いことではない。さっさかさっさかやって上っ面だけを撫でて覚えたつもりになっているのは使えないな。」
不器用の一心とは、器用を重んじず心を重んじているということです。真心を籠めた実践を丁寧にコツコツと行う人物こそ自らを磨き高め、ある深さにまで到達できるということなのでしょう。不器用なのは、心を籠めているからであって単に器用ではないわけではないのです。
修業するにおいて何よりも大切な心得が言葉ではないことは一目瞭然です。
「器用な人は器用に溺れやすい。ある段階までは早いスピードで行ってしまうから、油断というか、仕事を甘く見てしまうんやな。修業時代の器用なんていうのはたかがしれたものや。器用ではこなせない仕事がたくさんある。手先の器用な子は頭も器用や。要領よくやって褒められる仕事もあるだろうが、うちらのように一つ一つを確実に積み重ねていく仕事には、そういうものはいらないんだ。しっかりした継ぎ手を作るから大きな建物はできるんやし、きちっとした仕口を刻むから丈夫な建物になるんや。その継ぎ手や仕口を作るのは、切れる刃物と工人の仕事に対する思いや」
この”仕事に対する思いや”という言葉。
何よりもこの言葉に共感できます、仕事にどれだけの思いを入れるかなど今の時代はあまり重んじられません。しかし、志の仕事というものは「思い」こそ全てであり原点なのです。思いがなければ、何も入らず、人に影響を与えて生き方を変えさせるほどの本物の志事とは「思い」が何よりも全てを決定するのです。
今までの刷り込みを取り除くということも、今までの思い込みを取り払い、新しい実践に取り組んでもらえるのもその人の「思い」に触れるからです。志というものは単に仕事が器用に結果だけを誤魔化せばいいのではありません。コツコツコツコツと、日々に丁寧に真心を籠めて一気にやらずに手前から丁寧に怠らず取り組む忍耐と根気が必要のように思います。
それはまるで砥石で磨くような生き方です。「不器用の一心」というのは、一心にして自分を正す実践のように思います。ご縁の仕合せに自他をまるごと愛せるように子どもたちに遺したい生き方を優先していきたいと思います。