知識というものは便利なもので、世の中のことをある程度予測することができるものです。統計や集計を通して過去のパターンを分析することで、ある程度の予測は可能になります。人間はどこまでいっても自分を守るために危機感を持ちますからそれを発展させていくことで知識を膨大に広げていくようにも思います。
しかしその知識は常識というものに縛られるものです。言い換えれば前例主義や自分の想像の範疇を越えることはありません。新しい発見というものは前例の中から出てくるものではなく、その常識を超えた気づきによって出てくるものです。
例えばいくら過去の災害を想定したとしても、自分たちの想定を超える出来事が起きるのが自然災害です。同じように自分たちがいくら想定をしていても、偉大な廻りの循環の中で私たちが知りもしないようなつながりを通して私たちは活かされ生きています。
そういうものを理解するのはほとんどが直感であり、暗黙知です。形式知の粋を集めてみても、その全体までは知ることはできません。感覚というものは、知識ではないのです。それを言霊では「思い」や「祈り」、「ご縁」とも言い換えてもいいかもしれません。
言葉というものも、言葉がなかった時代は人間は自然のように直感そのものの存在でした。天文に精通し、地理に精通し、文化そのものでした。そこから言語知識が形成され、一つが二つになり、分かれて今では無限に分かれ続けています。
知識を持つことが優秀だと思っていますが、広がり続ける言葉や知識を知っているのはただの物知りであって本質や本物に気づきにくくなっているだけとも言えます。しかし現代では、その直感を形式知で語れなければ人に伝えることも難しくなっています。本来の自然を伝えるだけでも難儀なもので、それをいちいち分かるようにわかるところで伝えなければなりません。
ある意味、人間の進化ではなく文明の進化というのが今の進化の定義なのでしょう。人工知能やコンピューターや仮想空間などの発展というものは、文明がいよいよ新しい局面に入るということです。
歴史は人間の教科書であり常識です。
その常識を超えるには、今の時代を生きる人たちが希望を捨てずに新しい道を切り開き新しい発見を実践していくことのように思います。温故知新ですが、言い換えれば魂の磨きであり心の成熟と真実の技術の発達かもしれません。心と技術を如何に高めるか、今は魂の試練の時代のように思います。
子ども達には、どちらかという二者択一の生き方ではなくその間にある目覚めに生き続けてほしいと思います。それは善好奇心心といってもいいかもしれませんが、常に三つ子の魂を持ち続けて、なぜどうしてという問いを持ち続けてほしいと思います。
人間の可能性を信じているからこそ、諦められず已められないのです。
日々に納得するまで問いを発していきたいと思います。