今の時代、ありとあらゆるモノで溢れかえっています。一見、モノが溢れて豊かなようになっている気がしますが実際はモノが溢れて貧しくなっているようにも感じているものです。
全てのモノにはいのちがあると言います。
昔の日本人は、それを八百万の神々と呼び、この世の全てのモノには神性が宿っているという見方をすることができました。それを別の言霊にしてモッタイナイという言い方もしたのです。
ではその神性とは何かということです。
これはモノにはカタリがあるということです。漢字で書けば「物語」のことです。物が生きているからこそ語ってくるということです。これはモノが単なるいのちのないモノという定義ではなく、いのちが宿るモノだからこそモノが語るのです。
そのカタリとは、今までどのように辿ってきて出会ったかという奇跡の話です。そのモノが出来上がって自分の身の廻りにまでたどり着くまでどれだけの物事が発生してきたか、そしてどのような経過を経て今の目の前にまでやってきたのか、そういう一つ一つのご縁を感じるとき、そこには単なるモノではない神性が宿っていることに気づくのです。
足元に転がる石ころ一つでさえ、その石ころが目の前に現れるまで長い長い偉大な旅をして私たちの前にやってくるのです。あるいは、その辺に生えている草花でさえ悠久の年月のいのちの繰り返しを耐え抜いて進化し自分の目の前で咲くのです。
その辿りついた奇跡はまさに出会いのしあわせです。
出会いのしあわせを感じるとき、人はモノにいのちを観ます。
そのいのちの物語をどれだけしっかりと味わえるか、モノが溢れているから気づけないではなくモノが溢れていようがモノノアワレに気付いているということが大切なのです。
これだけ忙しい時代、そしてお金で物を簡単に売り買いし、大量生産大量消費で急速に工場生産をする昨今であってさえ、そのものがどのようにしてあなたの前にたどり着いたか、そこに確かないのちの物語が存在するように思います。
出会いというものは、廻り合いであり、その辿りついた奇跡を味わうチカラが不思議さの妙を味わう子ども心、「センスオブワンダー」でしょう。
常に物語を感じられるような一期一会のかんながらの道の生き方を、その出会いの哲学を日々に磨いていきたいと思います。