魂の傷~社會問題~

人は幼少期をはじめ、無意識のうちに心に傷をおっていることがあります。社會の中で自分がどのような環境の中でどのようなことを感じたかは、その人の心の中にあります。その心の傷は、見た目にはわかりませんがいつまでも痛む人ともう治っている人がいます。

例えば、怪我もそうですが古傷が痛むというように昔怪我したところが何かしらのことで傷んだりします。同じように、心の傷も古傷のように痛むことがあります。人は何かしらの怪我をしてはそれを乗り越えて強くなっていくのです。

傷ついて痛みが分かるということは、同じように傷ついた人の痛みが分かります。苦しみも喜びも楽しみも、人間には共感という与えられた天性がありますからその力によって互いに癒しあうところに人間の社會の根がはっていくようにも思います。

ただ、今の世の中を見渡して観ると心を傷つけるよりも魂が傷つけられているような気がしてなりません。自信を失い、自分の役割を実感できず、自分の居場所をなくしたり、昔でいうところの日本人の大切にしてきた美徳、正直、素直、謙虚、誠実、思いやり、真心、勇気といったことが社會の中で否定されることで魂が傷ついてきているようにも思うのです。

魂が傷つくという言い方は曖昧かもしれませんが私なりの言い方をすれば、それは子ども心が傷ついていくということです。

子どもの権利条約の根幹を提起したヤヌシュコルチャックは、大人は大きくなった子どもであると定義しました。身体が大きくなったから大人になったのではなく、みんな子どものままに大きくなっただけです。

それは産まれてから死ぬまでずっと同じく、子どもは子どもであるのです。

その子どもを、無理やりに大人(今の自分たちの境遇に同じに合わせさせよう)にしようとするところに魂の傷つきがあるように思うのです。その大人とは、社會の乱暴な側面ばかりを強めてそれに慣れさせていくかのようにです。

子どもの心を失うことは、心が傷つくだけではなく魂も傷つきます。どんな時でも子どものままでいいと見守ってくれる周囲があればその人は自信を持ち、魂を育てて健やかに逞しく生長していくように思います。

社會の中で傷つく人たちが増えているからこそ、その社會の一員として自分が何ができるかを考えないといけません。子どもの素直さをいつまでも失わないためにももっと大きな目で社會を見渡し、もっと深い心で社會を癒し、もっと篤い耳で社會の声を拾っていきたいと思います。

決して自分の問題ではなく、その人個人の問題ではない、人間における全ての問題は社會問題です。社業の中でさらなる徳の発明に精進し、社會をより善く直すためにも実践で弘めていきたいと思います。