正解探しの愚~コーティング~

人は刷り込まれ正解を教え込まれてコーティングされてしまうと、正解以上のことを考えなくなってしまうものです。世の中には、理というものがありますから知識を学び、その理を知れば、世の中を分かった気になれるものです。

以前、ある人が大学生の時に「自分はもう世の中の理を大体分かってしまった」という話を聞いたことがありますがこれも理論的な理屈を知って教科書を通して正解はもう大方分かったという意味なのでしょう。しかし実際は、理屈が分かって正解を知ったからとそれでうまくいくことはありません。自分の中の正解探しばかりしていても実際の世の中は正解を超えているものばかりですからすぐに通用しない事実に出会うからです。その人もその後は実際の理屈と違う現実とのギャップに大変もがき苦しんだそうです。

これは誰かが敷いたレールのように、筋道というものがいくらあっていると思っていてもそんな正論では人は動きません。人は思いによって動くものですから、正解がどれだけ合っているかよりもその思いがどうであるかを優先するのです。そこには心があるからです、そして心は目には見える正解や理屈以上の真実を捉える力があるように思います。

現実には、「思いやり」や「真心」というものがあります。

例えば、病気の治療や看護であっても正解通りやったから治ったわけではありません。そこに医者や看護婦や周りの思いやりがあってその人の自然治癒が働いて見守りによって回復します。他にも田畑の作物であっても、正しく育てたから育ったかというと、太陽の光や水、その他の風や土の微生物にいたるまで、真心を籠めて見守ったからそれが何かのハタラキを引き出し無事に作物が育ったのかもしれません。

つまりはあらゆる事象は、自分の頭で考えた正解の中にあるのではなく、それ以外の何か偉大な力によって実現している可能性があると思うことがあって正解以上のことを知るのです。先に知識がなかった時代がなぜ続いたかを考えればすぐに自明することです。赤ちゃんが知識がなくても自然に周囲を暖かくするのは、知識が先ではないことを証明しています。

正解ばかりを教え込まれて刷り込まれた人たちは、正解上の答えを探そうとはしなくなります。無関心になり、正解を超えた体験を積み重ねることが次第になくなっていくようにも思います。

本来は、正解通りにいくはずもなく、無理やり頭で正解のように仕立てて真実をねつ造しているだけで実際は正解などはないのです。正解探しの愚をおかしてしまえば、正解以上の真実は遠くなるばかりです。そうならないように一瞬一瞬のすべてを誰かのためにと真心で遣りきっていたり、誠実に思いやりを盡したり、全身全霊で思いを籠めて行動したりしたあとに、はじめて正解を超えるご縁の導き(真理)にも出会うように思います。

人は答えを知っているからすごいのではなく、答えを知らないからすごいという学問があるのです。詰め込まれコーティングされるのではなく、引き出され磨かれていく原石という考え方があることで人は自分自身の中に信や希望を持て努力の価値を再認識できるように思います。

刷り込みを取り払うのは、日々の内省で自分と向き合うことのように思います。一つ向き合えば相手のためになり、一つ受け容れれば相手が一つ変わります。正解をしってその正解を押し付けるよりも、自分の中の思いを高めてその思いを受け止めて思いを遣りきることだと思います。

刷り込みを取り払うには子ども達の姿から学び直すことです。一生は、出会いの連続ですから磨く機会を大切に思いやりを優先していきたいと思います。