幼いころから、周りのありとあらゆる正解というものを与えられて私たちは育ってきます。大人と呼ばれる人たちから大人になれと様々な正解を教え込まれてきます。そうちに楽を覚えて何かを知ろうとすればすぐに正解を探してはその正解という常識の中で誰かの答えに合わせるのです。知識で自分の人生が変わるはずはないのに、知識でまるで人生が変わったかのように錯覚してしまうほどです。
自分の人生を思うとき、答えは自分の中にしかなく、尊く生きた実体験の中で自分の答えを出していくしかありません。しかし実際は、刷り込みから誰かの答えが先にあるから自分で答えなくてもいいと勘違いしている人も多いように思います。
一度答えを刷り込まれて考えることをやめてしまったら、自分の答えを放棄してしまうことにもなります。誰かが言ったからや前例にないからや、きっとやっても無駄だからと思うのは自分の答えに生きることをやめているのです。
人生はその人その人に個性がありますから、誰かと同じようにはならないものです。その人の姿かたちが微妙に他の人と異なっているように、自分の人生もまた同時に千差万別に異なるのです。だからこそその答えもまた異なります。
如何に自分の答えに生きていくかは、自分のままでいるということです。評価の中でねつ造した自分ではなく、誰かに言われたからそう思い込んでしまった自分ではなく、刷り込まれる前の子どものままに自分で手さぐりで答えを感じ取っていく好奇心全開の自分の中で出た正解に生きるということです。
人がどういおうがもしも人生を最期まで自分らしく生き切ったならその人の人生は偉大な幸福であったと言えるように思います。最期には、「あの人は遣り切ったね」と言われたらきっと「自分の答えを出したんだね」というように憧れられるように思います。
人生は産まれてきたときから、その人にしかない物語、その人にしかない個性、その人にしかないご縁があるように思いますからその人らしくあってほしいと願うのは人類の目指す理想かもしれません。
心の原風景の中に、自分の答えに生き切った人がいることは絶対的な安心感です。子どもたちのためにも、憧れを大事に生きるミスターチルドレン(子どものままの大人)の一人になれるよう足るを知りつつ歩み続けたいと思います。