いのちのむすび~生命の畏敬~

先日、アルベルト・シュバイツァーのことを深める機会がありました。「世界人類は皆兄弟である」という思想を持ち、平和活動だけではなくアフリカのランバレネで医療活動を通して自分の生き方を貫かれた人物です。

生き物を深く愛し、「生命の畏敬」という言葉を遺しています。

私のかんながらの道でも最も重要なテーマがこの「いのちのむすび」です。そもそも私たちは自然界が産んだ一つであるのだから、元来繋がって丸ごと一つになっているものです。ふと田畑に出ては、様々な虫たちや植物たち、動物たちの声を聴いていたらその田畑の中にある自分に気づくことがあります。

そんな時、生きている自分ではなく活かされている自分に気づくのです。その安心と安楽はとても言葉では表現できず、自分も皆と一つになっている仕合せを味わえる瞬間です。

その時、いのちは自他一体に結ばれています。それぞれにどれも必要であり、要らないものは一つもないということは自然を観れば明白です。しかし人間が価値を定め、その価値基準によって上下軽重など仕分けて権力を握っている世界ではどうしてもその考え方から離れてしまうのかもしれません。八百万の神々とあるように私たち日本人は大和という考え方が基本にあります。その基本があるから、いのちを尊び、いのちの有難さ、いのちの御蔭様に見守られている感覚を失わないのです。

そのことをシュバイツァーは「わたしたちは、生きようとする生命に囲まれた、生きようとする生命である。」という言葉で語り掛けます。つまり同じく一緒、私たちはいのちそのものなのだという言葉に強い信念を感じます。

そして私が何よりも感銘を受けたシュバイツァーの詩があります。

「自分にどんな価値があるのかが問題ではない。
生命そのものが神聖なのである。

虫が灯りに集まり、羽を焦がして落ちるのを見るよりは
むしろ窓をしめきって我慢する。
雨上がりの地面にはうミミズを見れば、
太陽が照り輝く前に、湿地にもどればいいと気づかってやる。

これを人は、感傷と呼ぶかもしれない。
しかし、私は恐れない。

認められるまでは、嘲笑される。
これは真理の常である。

私が「生命」というものの真の意味を見つけた土地、ランバレネ。
人は誰でも自分のランバレネを持つことができる。」

窓の外をみれば青空と光り輝く朝露の中で、鳥が歌い、花が咲きます。その一つ一つのいのちと同じように、今の私も愉しくしわあせに生きています。自然に身を置くというのは、いのちを大切にするということ、思いやりを何よりも優先しようとすること、それは役割を与えてくださっていることに自然に感謝できるからかもしれません。

最後に、自分探しや自分を見つけようと焦っている人をみますがその心配はないことをシュバイツァーの言葉で伝えます。

「人の本当の価値というのはその人自身から見出す事はできない。それは周囲の人々の表情や雰囲気の中にありありと浮かびあがってくるものだ。」

どう生きたらいいか。

この魂の自問自答は、謙虚さの中で育まれ、自然の答えに生きることでつながるのかもしれません。偉大な先人に習い、修養を続けてさせていただきたいと思います。