終わらない夢

私たちはかつての人たちに様々な生き方を遺していただいていることに気づきます。

昨日書いたサミエル・ウルマンの「青春」の詩も、その詩に夢を遺した人物と、その人物の目指す理想を受け継ぐものたちによって夢が続いています。書き記した人物はもう死んでしまって生存していませんが、その人の夢は他の人に語り継がれることによってこの世に存在しています。

忘れ去られていくのが世の常ですが、それを忘れない人たちによってその夢は時代を超えて遺っていくのです。しかもそれはその人が出会ったこともない人たちですし、その人が生きていない時代の人たちなのです。

自分の遺志というものは、誰が受け取るのか、そして誰が後を綴り夢を観続けるのか、それは誰にも分りません。しかし確かに分かっていることは、夢は終わらないということです。

夢が終わらないからこそ、どんな夢を自分が観ているのか、どんな夢を観たのか、そういう物語が何らかのかたちによって出会う事を信じて諦めないで生き方を遺していくしかないのではないかと私は思います。

沢山の人たちの夢は、全て一つのところに集約されているように思います。

それは人類の夢とも呼んでもいいのかもしれません。人類の夢は時代と関係なく、世界と関係なく、生物無生物の分別を超えて今に生き続けています。

夢を明らかにすることは、その時代の夢の継承の発信でもあります。夢は代々集積し偉大に発達していきますからその初心を忘れないように夢をカタチにしていきたいと思います。

青春の真価

先日紹介したサミエル・ウルマンの詩「青春」ですが、もう一度深めているとオリジナル版というものがあることに気づきます。本来、サミエル・ウルマンが詠んだ詩がそれぞれの解釈で多くの人たちに語り継がれるうちに改編され今に至るようです。

サミエル・ウルマンのオリジナルには、「アンテナ」という言い方で表現されている一文があります。そこまでご紹介しなければ「青春」の本質がズレてしまうと思い、敢えて追加して紹介します。

「・・・さあ限をとじて想いうかべてみよう
あなたの心の中にある無線基地
青空高くそびえ立つ たくさん光輝くアンテナ

アンテナは受信するだろう 偉大な人々からのメッセージ
崇高な大自然からのメッセージ
世界がどんなに美しく驚きに満ちているか
生きることがどんなに素晴らしいか

勇気と希望 微笑みを忘れず いのちのメッセージを
受信しつづけるかぎり あなたはいつまでも青春

だが もしあなたの心のアンテナが倒れ
雪のように冷たい皮肉と氷のように頑固な失望におおわれるならば
たとえ二十歳であったとしても あなたは立派な老人

あなたの心のアンテナが 今日も青空高くそびえ立ち
いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
たとえ八十歳であったとしても あなたはつねに青春

真の青春とは若き肉体のなかにあるのではなく
若き精神のなかにこそある」

心の在り様次第という言葉にはじまる子どものような好奇心を持ち続ける精神、それを無線基地という言い方をしそれを受信するアンテナ、つまりは感性を磨き続けよという意味に私は解釈しています。

青春とは、真実を知ろうとすることを諦めるときに消え失せるのかもしれません。

人生はどこまでいっても分からないことばかりです。わからないからこそ希望が頼りです。その希望を諦めさせられるような世間の常識に負けない真の強さと逞しさ、それが子ども心の中にある好奇心のように思います。

どうせ無理だと誰かに言われても自分が言わなければそこに青春があります。
やっても意味がないと誰かに言われても自分が信じればそこに青春があります。
言うことを聞けと誰かに脅されても自分が本質に生きればそこに青春があります。

青春とは心そのものの姿です。

どんなに周りの環境が自分に厳しく降りかかろうとも、心の持ち方次第で一生青春を謳歌できるのが真の学問の醍醐味ではないかと思います。何が教育の本義なのか、教育とはその人が一生青春できる力を育むいのちの磨き方を与えることではないかと思います。

もしも先を生きる大人たちが子ども達に心の持ち方を与えることができるなら、子子孫孫まで人間は誰しも自分らしい人生を謳歌できるようになるのかもしれません。

青春の真の価値を改めて学び直していきたいと思います。

 

効率の本質

経済を優先し効率を良くするということは、便利さを追求し効果的に行うということです。一見、便利さは効率を上げて経済を発展させているように見えますが実際は短時間で目先のことを解決するために膨大なエネルギーを使っているだけで効率がいいわけではありません。

本来の効率の良さとは、無駄が少ないという意味です。しかし実際は、膨大な無駄なエネルギーを消費しておいて効率がいいという変なことを言う人が増えているように思います。効率を観るときコストとエネルギーがどれくらいかかったかを考えます。

例えば、鶏の卵を販売するには大量の鶏を飼い、餌を大量に輸入し、病気予防のための薬を用意し、消毒や清掃などに沢山の電気やガソリンなどを使います。そのためにはコストがかかりますからそのコストを回収するために、さらに販売や宣伝、より効率を高めるためというように最新の機械や薬、その他の餌や鶏舎の増築などを行います。結果的にコストとエネルギーは増加し続け、無駄がどんどん大きくなっていきます。伝染病が流行れば致命的ですし、もしも停電やガソリンが高騰すると大変なことです。

しかし矛盾があるのですが、人はそれでも今の方が効率がいいと思ってしまいます。卵を増産するためには便利だからです。この目先の便利さというのは効率が本当に良いのかということです。

うちでは庭先で自然養鶏といって、烏骨鶏を平飼いしています。雑草を食べ、玄米や穀物を食べ、虫たちを食べます。発酵した土で泥浴びをし、雨水タンクの水を飲みます。そんなにたくさんの卵を産みませんが一家で食べる分は十分です。子どもを数年に一度羽化して、ちゃんと次世代も継承されます。たまに畑に連れていけば、楽しそうに遊び畑の虫たちをついばみます。薬もなにも投与しなくても免疫が高く病気にもならず、電機やガソリンがとまっても死んでしまうこともありません。毎朝、今日を知らせてくれて一緒に暮らしを楽しんでいます。

確かに目先をみるとたくさん卵を産まないから不便であり非効率と思うのかもしれません。しかし本来のエネルギーやコストの概念から見れば、効率が良いのはどちらの方かというのは一目瞭然です。

つまり経済優先の効率の良さとうのは、お金を作り出すのに効率が良いという意味であって、自然循環の中にある本来の効率という本質とは別物だということです。

本来の効率という概念をもっと見直した方がいいのではないかと私は感じます。

福祉の業界は介護などもそうですがもうコストもエネルギーも飽和状態です。この先はさらに介護や福祉にお金がかかり、次世代の子どもたちの負担が増え続けていきます。効率をあげるために施設を増やしたつもりが、逆の効果を発生させているように思います。

目先の国家経済を優先し続けていると、自然から離れるばかりです。もうすぐ世界は臨界点を超えてしまいその矛盾に向き合うことになると思います。古代人のように賢い人たちは、無駄がないことを効率の善さと自覚していました。自然から離れることもなく、自然の中で如何に効率が善くなるかを工夫していました。結果的にそれが一番長い時間人類をこの地球に存在させたように思います。

自分の代に全てのエネルギーを使い切るか、それとも次世代のために勿体なく譲っていくかはその人の生き方です。不自然を自然であるように誤魔化してみても、その麹り合わせは必ず明るみになります。自然のままに世の中が善くなるようにするには循環を見つめ本当の意味での効率の上げ方を見直すことだと思います。

常に本質に立ち返り一つの心に一つの手仕事手作業で好循環になるように実践を一つ一つ確かに取り組んでいきたいと思います。

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

姿勢

先日、姿勢について考える機会がありました。姿勢というものは、全ての基本であり、その基本姿勢を知っている人は変化が早く、体験を素直に吸収していくことができます。

そこで姿勢の善さとは何かということを書いてみます。

姿勢という言葉は、姿勢よく座る、姿勢が美しいという単に見た目の姿かたちだけでで使われるのではなく、心の姿として、姿勢が問われる、どのような姿勢で臨んだのだろうかというような使われ方をします。

からだでいえば、姿勢が善い人は健康であるし、こころでいえば、姿勢が善い人は素直で正直ということになります。これとは別に身体が歪むと不健康になり、心が斜に構えると不正直になります。

結局は、からだも心も自分の姿勢次第であるということがその人の姿勢の善さで自覚できるのです。姿勢を正すという言葉は、その元になっている基本の姿勢をまず直してからすべてははじまるということを示す言葉です。

何を学ぶにしても、姿勢が悪ければ何をやっても中心が身につかずフラフラしてしまうように思います。では姿勢が正しいという姿勢とは何かということになりますが、これはまず基本の姿勢が何かを知っているかということになります。

からだでいえば、姿勢が善いと言われるためには姿勢の善いモデルを知っていなければなりません。美しい姿勢で立つと言われても、そもそも美しい姿勢を知らない人では姿勢を正すことはできません。同じように心も、姿勢を直せと言われても心の姿勢として素直で正直というものが何かを知らなければ美しい心の姿勢にすることが分からないからです。

姿勢というものは、基本のことです。

何を基本にするか、その考え方や意識から変えることで姿勢ははじめて正すことができるように私は思います。何が自然であったかを知る人は不自然が分かりますが、何が自然かを知らない人では不自然も自然も分からないのです。

姿勢が善い人とは、自然体を知る者です。

自然体を知る者は、原理原則を自覚できる人です。刷り込みや強い自我欲によってつくりあげてきた自分の歪みはそう簡単には直りません。しかし、周囲にそれを指導し直してくださる人がいたり、もしくは自分が憧れ私淑する生き方のモデルになる人を見習いながら直していくことができる人は仕合せです。

素直や謙虚、そして健康を学ぶには周囲の仲間たちの実践から身に着けていくことが学問の歓びでもあります。道を共に歩み、その基本の姿勢を知る沢山の仲間に恵まれている機会に深く感謝し、常に自ら自立する基本を自然に学び直していきたいと思います。

完全体~人生のモノサシ~

人は物事を判断するとき、加点法か減点法かをその人の考え方で決めてしまっているものです。簡単に言えば、物事を省察するときに肯定的に物事を捉えているか、それとも否定的に物事を捉えるかということです。

これはどちらかが良くてどちらかが悪いという意味ではなく、不足を見るか足るを見るかという考え方の違いになります。そこには、完璧を目指すか、完全を目指すかという違いがあるように私には思うのです。

完璧というものはこの世には存在しません、もしも完璧があるとするならばそれはこの世のものではありません。以前、あるテレビ番組の企画でパソコンを使って世界中の美人のパーツを全部合わせて完璧な美人を創ってみようという企画がありました。実際の結果は散々なもので、とても見るに堪えない恐ろしい姿になりました。何をもって完璧であるかとするのは、人間の中の平均の中でもっとも高いものを組み合わせているものを完璧であると考えているのです。

それに対し完全という考え方があります。人間は産まれながらに完全な存在であるというものの視方です。不足しているものがあるのではなく、今の自分のままがもっとも完全だということです。言い換えれば「私は私であればいい、あなたはあなたであればいい」ということです。完全な存在なのだから何かを無理に足す必要もなく、ないからそれを嘆くこともありません。今の自分がもっとも完全だと考えれば、ないもの探しではなくあるもの探しをすればいいということになります。

別に人生は100点でなければならない理由があるわけではないのだから完璧である必要はありません、それよりも自己実現ができることの方が愉しいですし、思いやりを盡して誰かのお役に立つことの方が仕合せです。今の自分でできることにいのちを燃焼させていく方が今の自分を信じ愛することもでき、周りの人と活かしあう豊かさを実感できるのです。

人間は欠けているからそれを補うのですが、それをもし一人で全部やったらどうなるでしょうか。みんな同じコピーを作ることに躍起になってしまうかもしれません。先ほどの完璧な美女がいればそれを目指せば全員それをコピーすることを目標にするはずです。これは学校教育の評価による刷り込みをもっているということではないかと私は思います。

今の自分のままでそれをどう伸ばしていくか、それを磨くかというのが本来の加点法、肯定的な物事の視方、そして楽しくなる生き方ではないかと私は思います。コピーで苦しんでいる人が沢山いる今の社會に、あなたのままでいいと言ってくれる社會があることでその人がどれだけ救われるかわかりません。評価のモノサシではなく、人生のモノサシをその人の中に持てるようにしていくのが私たちの願う見守り合う社會です。

自分たちの生き方を通して、一人でも多くの子ども達に完全である仕合せ、周りと一緒になる喜びを伝えていきたいと思います。

 

 

人事考課の罠

先日、人事考課について考える機会がありました。そもそも人事考課というのは、公平に平等に評価するために取り入れるという人が多いのですが、実際はそうはなっていないことがほとんどです。

その理由に、実際はそれぞれの特性や持ち味を活かそうといった観点からはほど遠く、如何に一人ひとりを均一にしようかというシステムで動いているものがほとんどだからです。実際に一人で生きていくのならば、短所も補ってあげなければ生きてはいけない、長所だけでは難しいと考えるのかもしれませんが、そこにチームや共働という考え方があれば無理に平均の力が必要なのかと私は思うのです。

実際の社會に出て観れば、組織の中でどう自分の個性や役割を果たすかということが求められていきます。そこには、自分の持ち味や長所をどう周りを活かしあい、そしてその周りを信頼し短所を補ってもらうかという力が必要になります。

そうでなければ、全体に効果のある大きな仕事はできませんし、また仕事というのは人々との協力で自分の役割を果たすことで仕合せを感じますからその実感もあまり得られなくなっていきます。

本来、みんなを同じにしようという考え方というのは平均にしようという考え方です。金太郎あめのようにどこを切り取っても同じにしようという発想は、一斉画一に同じものをつくろうとするときの手法です。

人事考課をやるといっても、その元になる考え方が平均や画一を求めているものであればその結果はその考え方に従ったものになると私は思います。

人間は一人一人の顔つきがみんな違います。誰一人として同じものはありません、これは指紋でも同じです、わざと人間は異なる部分を創り産まれてきます。これは本能ですがここから読み取れる真理は、人間は同じことをするのではなくお互いに異なる特性を活かしみんなのお役に立ちたいと願う生き物だと分かります。

それは自らの長所をどう周囲に役立てていくか、そして短所は如何に迷惑をかけないように周りの力を借りるかということを運命づけられているかのようです。だからこそ、苦手なところを克服するのに一生を費やすのではなく、得意なところを伸ばすことに専念し、自分の苦手は得意な人の力をお借りして”お互い様と御蔭様”にしていくことが本来の”生きる力を育てる”ことだと私は思います。

一人で生きていく力は決して平均の人にすることではありません。

一人で生きていく力というものは、自分を信頼するという力です。言い換えれば”自信”のことです。時代が何千年変わろうが教育の本質は太古の昔から決して変わりませんし、普遍的な真理はどんなことがあっても錆びつくこともありません。

人事考課をする際に一番考えないといけないのは、みんな違ってみんないいと口では言いながら実際はみんなはやっぱり同じがいいという愚を犯すことです。

本当は何かと何かを誰かが言ったからすぐにやろうとするのではなく、刷り込みに気付くのが先です。そして単に制度だからと人事考課をするのではなく、人類や人々が如何に安心して生きがいや遣り甲斐を感じられるかを深めていくことが人財を教育するのだから何よりも優先して考えることです。

私たちも子ども第一義のモデルになるような働き方生き方を突き詰めていきたいと思います。

内省的実践習慣

情報化社会というのは、頭脳を使い知識を優先して妄想を現実にしていく世界のことです。本来は、人間の頭脳は危険回避にもっとも活躍しますから、脳ばかりを駆使していると危険察知の情報収集にすべての意識が囚われその場その場を対処することにエネルギーをほとんどつぎ込んでいきます。情報化というのは、知識先行化のことで知識ばかりが優先されている世界ということです。

これを船の航行で例えてみます。

頭で処理するというのは後者の急流濁流の中で目先の石や障害を避けようと先々の不安を解消し危険を回避するために集中力を発揮している状態のことです。しかし、そんなことを続けていたら周りの景色も分からずどこに進んでいるのかもわからず安全だけを守ろうと身動きが次第に取れなくなります。この状態を人間は「忙しい」と呼びます。忙しいというのは、心が着いてきていない状態のことで、目先のことしか考えられず、目の前の不安を解消することに集中しているということです。

しかし本来、これは人生の航行と同じで一度しかない船旅をどのように味わい、自分が納得する物語を生きて旅をするかはその人の決心に由るものです。それにはどんな旅であっても、自分が何のために旅をするのかを忘れずに舵をとっていく必要があります。そのためには忙しいという状態がずっと続くというのを避けなければなりません。では、暇になるまで忙しいのかといえばそんなことはありません。忙しい人は暇でも忙しいのは、心が着いてこないから暇にしていないのです。

心を広くゆったりと持つには、内省と実践の習慣が身についている必要があります。なぜなら、出来事が動く際に、同時にその出来事は一体なんだったのかを振り返っているかを自ら自得しなければ意味を感じることができなくなるからです。

これはすでに海外でも提唱されていて、マサチューセッツ工科大学のドナルドショーン氏は、「リフレクティブ(Reflective)=内省的+プラクティショナー(Practitioner)=実践家」と定義しています。つまりは、”内省的実践家は行為しながら考える”という言い方をし、そこではじめて経験した糧が体内で消化されるという意味です。

これは私も同じように理解していて、内省と実践がなければ人間は必ず「忙しい状態」になると思うのです。もしも内省と実践が習慣になっているのであれば、忙しくても忙しくはないという状態がつくれます。つまりはどんなに環境や状況が変化していても、心は平常心を維持することができているということです。

心が落ち着いていれば、忙しそうに見えても忙しそうなだけで忙しくなることはありません。まるでしなやかで嫋やかに揺れる平原の若草のように、揺れても心は楽しんでいます。

そして組織が内省的実践ができているのなら、その組織は初心や理念を忘れることは決してありません。その組織は、身体がいのちを消化吸収していくように、心も同時にいのちを消化吸収していくことができ、いのちはめぐり発達を已まなくなります。

もしも先ほどの急流で濁流の船で忙しく舵をきる船長がいたら船員はきっと不安で仕方がないでしょう。そうならないように、内省と実践の習慣を身に着けることが心を優先する生き方、見守るためには必要不可欠であると私は信じているのです。

そのために、私たちはあらゆる方法を用い内省と実践を同時に習慣づくようにリーダーに実践を増やし促していきますし、内省をファシリテーターの資質の基本に据えているのです。この内省と実践は、本来同一であり片時も分かれることはありません。

常に忙しいからできなかったではなく、忙しさに負けない強さを持てるようにしていくことが心のつながり、共感の絆を結び育て、組織の結束を高めて豊かにしていく方法なのです。

心の持ち方を変えるためには、コンサルティングの技術も必要です。まだまだ精進して、その理論を具体的発明に換え、実践実地に活かしていきたいと思います。

国際言語~和洋言語~

以前、オランダに訪問しミマモリングソフトの説明をつくるとき言語化することの重要性を感じたことがあります。

私たち日本人同士では通じる暗黙知は西洋では言語化しなければ伝わらないものです。例えば、虫が鳴くことがノイズであるという言語しかない言語圏では煩い対象でしかありません。しかし私たち日本人は虫の鳴き声に心地よく感じ、蝉などが一斉に鳴く様相には蝉しぐれと呼んで情緒を味わいます。西洋からすれば、日本はあんなに蝉が多いところに住まないといけないことに同情し、大変気の毒な人々だというイメージすらあるそうです。

そもそも私たち人類は、世界を移動し分かれて行く際に言語を分けました。どの言語圏でいるかというのは、どの文化圏にいるかと同義です。だからこそ同じ言語を持つことで相手の文化と融和していくことができます。

以前、分子生物学者の村上和雄さんが「サムシンググレート」という言葉で「大自然の偉大なる力、その偉大なる何者か」と直訳されたのを聴きました。遺伝子を探究していく中でどうしても説明がつかない存在に気づいたというお話だったように思います。しかしこの言葉ですら、日本人の私たちはよく伝わりますが西洋の自然科学ではこの言葉は逸脱していると言われているようです。

本来、一つ一つの暗黙知というものは、職人気質の中で育まれるものです。師弟が一心同体になって学び合うとき、言葉にはならない微細で微妙なものまで伝承伝授されていきます。そういう部分は言語化できないものが多く、語られず実践し合う中で一心同体に掴み取ります。しかし西洋ではこの言語化されていないものは、認められず、真理はすべて言語化できるところで語らなければ相手にされないのです。

今は西洋や東洋が分かれている時代です、それぞれが違いばかりを唱えては争いは尽きません。あらゆる言語を調和する、和洋のちからが必要ではないかと私は痛感しています。それには私たち日本人が自分の言語を磨き持たなければならないように思います。

今まで島国であった私たちは一つの言語で生きてきましたが、これから国際人の一人として様々な言語圏の人たちと語り合っていきます。その時に、どんな言葉で語るのかが重要になってくるのです。違いを超えて語り合うには、言語的自我を如何に持つかということです。

こういう日々の綴りであっても、自分の言葉を必死に磨いていくことでいつか世界と心を分かち合っていくことにつながると信じています。言葉というものは諸刃の剣ですから、言語化することは真理の矛盾との正対ばかりですが引き続き日々の言語を磨き続けて国際言語(和洋言語)を育てていきたいと思います。

真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。